エール
最低かもしれないけれど、特別ではない自分へ
自分は生きていも仕方ない
消えてしまえ
才能もない
自分なんて、いなくたっていいんだ
ごもっともな意見が頭の中を泳ぎ回る。
浮かんでくるものは、無理矢理に沈めても、ビート板のように何度でも浮かび上がってきます。
沈めるのは諦めて。
ここで、自分特別令を出すと、
自分は生きていてはいけない
自分は無能だ
自分はいない方がいい
自分は、自分は、自分は…
の思考に陥るので、2つ約束。
①自分は最低かもしれないけれど、特別ではないと思うこと。
隣の人に同じようなことが言えるのか。
それが自分だから、自分用に特別に考えていないか。
もし、自分と同じスペックの人間がいるとして、その自分でない人間に対して同じように言えるのかな。
隣にいる人には絶対に言わないことも、自分には特別に言えてしまうことがある。
自分特別令。(令和の令だね〜使いたかったの〜)
自分のことだって、赤の他人に対するぐらいに無関心に寛容(うかんむり2つだね〜)にいられたらいいなあと思う。
自分のことを、いくら最低だと思っても、特別だとは思わないでいたい。
公衆トイレから出ていくとき、順番待ちをしている人たちへの会釈レベルの気軽さで、自分を見られたらいいなあ。
②「みんな違って、みんないい」は、goodのいいじゃなくて、まあ許容しますよ、まあセーフですよ のいいだと思うこと。
みんな違って、まあ、とりあえず、みんな生きててもいいっしょ!!
の、「いい」である。
goodの方の「いい」も素敵な考え方だと思う。みんなが何かの1番だっていう理論は分からんでもない。けど、あんま納得いかない。
日本の誰もが口ずさめるような歌を作詞作曲して歌うことができる人、
オリンピックで金メダルを取る人、
人から頼られる人、
人から好かれる人、
人から感謝される人、
人に感動を与えられる人。
こんないい人、goodな人は一握りである。
みんないい??みんなじゃなーい!
それにどこまでもgoodを追求できたとしても、一握りの人たちでさえ、goodでない人と同じような寂しさや、無力感が湧き出てくることもあるだろう。
(知らんけど笑。)
しばしばスーパースターの孤独や、苦悩は映画などで描かれる。
しばしばスーパースターの弱みは、大衆の関心を集める。
ここでは、スパースターだって同じ人間なんだっていう話がしたいのではないし、
みんな同じ苦しみがあるんだと言いたいのではない。
スパースターも凡人もみんな、違う人間で、それぞれ違う思いをもっていて、みんな別々に苦しめばいいし、楽しめばいいし、生きてていい。
自分も人も別々だけど、特別ではなく、別にそれでいい。
何かの誰かの1番、bestでなくても生きていていい。
betterでもgoodでもなくていい。
worstでもいい。
スーパースターでも、天才でも、凡人でも、最低な自分でも、誰もがそれぞれの苦しみを感じて、生きていていい。
自分は特別ではない。当たり前にみんなが違っていて、生きてたら、いい。
自分がgoodの方のいい人になれるなんて期待してないし、いい人になりたいならなろうとすればいいし、行く先々で苦しめばいい。それでいい。悲観的で、消極的で、最低かもしれない。でも、苦しんじゃいけない特別な人ではないんだと思う。誰だって。
人に対しては、1番じゃなくていいよ、苦しんでもいいよと思える。
隣の席の凡人に優しくできるように、1番近くの凡人ー自分に優しくできたらいいね。ね、自分。
たくさんの人に読まれなくたって、人を感動させられなくたって、どこかで誰かに確かに私の言葉が読まれるのがいい。それがいい。特別でなくて大丈夫。
別々の空白に散りばめられた平凡な点でいられたら、点と点とが色濃く結ばれるということもあるだろうか。
最低かもしれないけれど、特別ではない自分より