三白眼のいじめっ子

三白眼(さんはくがん)
というと、仰々しく聞こえるけれど、黒目の左右以外に、下の方にも白目があることを言うらしい。
さして珍しいことでもない。

小学校の図工の時間、隣の席の子を描いたことがある。

私は三白眼を描いていたらしい。
「黒目の下に白い部分が残ると、冷たく見える」と担任から言われて描き直した。

定かではないけど、見慣れた自分の目を思い出して描いたのかもしれないし、もしかしたら、隣の子の目をよく見て、忠実に描いたのかもしれない。

そのころから、自分の目つきの悪さを気にするようになったかな。

あと、時を同じくして、耳の形が気になっていた。耳の先というか、上というか、耳たぶと反対側の部分が、少し尖っている。大体の人は丸い。
イメージはゼルダの伝説のリンクとか、ハリーポッターのゴブリンとかの耳みたいな。
あんなに長く鋭く尖っているわけじゃないけど、イメージね。


この前、らすくりさんの文章で思い出したんだけど、私は心配性な子どもだったようだ。
目や耳のことも心配だった。

今だって、心配の種は尽きないけれど、昔ほどではないし、自分を安心させる方法も分かってきた。

私はみんなと違うのが怖いけれど、みんなは私だけ違うのは怖くなくて、弱いと思っている、どうでもいいと思っていると、思えるようになってきた。

私はたぶん、変わり者なんだけど、人から見たら怖くないらしい。

みんなと違う一人ぼっちでいることで、怖くないと思ってもらえるなら、それでいいかな。
耳が尖っていても、三白眼でも、相手を怖がらせたり、傷つけたりしないから、良かった。

なのに、そうじゃない時があった。みんなと違うことを理由に、人を傷つけたことがある。
私はいじめっ子だった。

なぜそんなことをしたんだろう。
きっと怖かったんだと思う。
みんなと違うのが、すごく怖くて、心配で、傷つきたくなかった。

誰かを攻撃する人は、怖くて怖くて仕方ないんだろう、弱いんだろう。

決してその行為を肯定しないし、許せないけれど、大丈夫だよと言ってあげたい。
怖くないよ。

耳が尖っていても、三白眼でも、変わり者でも大丈夫だよ、ともっと早く知りたかった。
そうすれば、人を傷つけることが少なく済んだかもしれない。

人を傷つけた自分は、許されてはいけないと思うし、許してもらえるまで何か償いができるならやりたい。それもできずに、へいへいと生きている。それでも、何も気がつかず、相手が傷つくことも、自分が弱いことも知らないまま、気楽に生きるより、良かったと思う。


人を傷つける理由は、人それぞれだろうけど、私は自分が変わり者であることが怖かったのだと思う。心配だった。

変わり者でなくなろうとするほど、怖いことはないのにな。自分を変わり者でなくそうとするとき、誰かを傷つける。そして、自分の一部の、息の根を止める。

人の一部を、自分の一部を殺そうと必死だった事実は消えない。
今日もこうやって、平然と生きている自分は、大嘘つきだ。

この嘘に気づいてほしいのかな。
自分がどれだけ酷いことをしたのか分かってほしい。
そして、それでも隣で笑い合える人がいてほしい。
わがままだ。

私がどんなに酷い人間か分かっていても、隣で本当に楽しそうに笑う人がたまにいる。
本当は、私が酷いことにも気づいてないだけなのかもしれないけれど。

そういう人の笑顔からは、「大丈夫だよ」と聞こえる気がするから、私は都合のいい尖った耳を持ったものだ。

私まで笑っている。
心が笑ってしまう。

一生許されないけれど、もっと笑っていたいと思ってしまう。
三白眼のいじめっ子はわがままだ。