タイトル

極私的ヨツミフレーム論

~世界に遍在`したい`ヨツミフレーム~

この記事は、『アスタリスクの花言葉』の重要なネタバレを含みます。

1.人間、ヨツミフレームという謎


ヨツミフレームさんと聞いて、皆は何をイメージするだろう。
「メディアアーティスト」「データベース解析ブロガー」「kawaiiムーブのイワシちゃん」など、肩書は無数にある。
しかし、ヨツミさんはどこか「捉えどころ」が無い。
ワールドで、イベントで、たまたま出会うヨツミさんは、目を離せばもうそこには居ない。
渡り鳥のようにVRChatを飛び回る彼を、どう紹介すればいいのだろう。
僕はまだ、ヨツミさんの事を十分に知らない。

僕とヨツミさんの付き合いは約1年半になる。
初めて会ったのは「1%の仮想展」が行われるよりずっと前の事だ。
出会いは偶然で、ハイセンスなデザインとシンプルで風情がある作品を見て、すぐに興味を惹かれた。
色々話したくなったが、当時の(今もそうだが?)ヨツミさんはシャイな方で、たまにふざけあっていても、何かを話し込むことはなかった。

正直に言うと、そうした距離感はしばしば僕を不安にさせた。
僕もシャイな方なので、「相手の迷惑になっていないか」「楽しいのは僕だけで本当は別の事がしたいんじゃないだろうか」そんな事を考えたりもした。
それでもヨツミさんの「捉えどころ」の無さは、魅力的な謎だった。
だから「1%の仮想展」の時、インタビューという形式を使って、「人間ヨツミフレーム」さんに触れたかった。
勿論広めて、言葉を残して、価値を共有したかった気持ちもある。
半分くらいは。
https://note.mu/mokushi/n/na010a7b6658b

結果として、インタビューの最低限は達成できたと思うけど、人間性に触れることは出来なかった。
収録終了予定の時刻を大幅に過ぎても、踏み込むことが出来なかった。
ヨツミさんはもっと色々考えていて、もっと魅力的に紹介できたはずだった。悔しかった。
記事を書きあげていると、ヨツミさんのブログが更新された。
https://y23586.net/2018/09/
それは「データベースの解説ブログ」だった。
読み終わって、僕は初めて「人間ヨツミフレーム」さんに触れることが出来たのだと思った。

2.「観察者」への欲求

ヨツミさんのブログを目にした人は多いと思う。
記事内容については割愛するが、特筆すべきはそこに現われていた「超越的な観察者としての視点」だ。
今まで触れることが出来なかった一面だった。
集めたデータを客観的に分析し、主観や印象を排除して、分かり易く伝える。
そうした文章からは、内容とは別に明らかな人間的な欲望が感じられた。
主観を超越して真実に近づきたい、データを集めたい、分析したい、もっと知りたい。
誰にも頼まれておらず、ましてや報酬も出ない。純粋な知的好奇心から来る欲求。
「観察者」でありたいという欲求だ。

「情報に触れていないと落ち着かない」と、ヨツミさんが話してくれたことがあった。
ヨツミさんはワールドの端っこで、作業場のあなたの隣で、きっとtwitterやAPIのデータベースを見ているだろう。
リアルタイムで更新される情報に、彼は常に触れている。情報の虫だ。
良い意味で変態だった。それまで出会ったことが無い人だった。
僕は得難き人に出会えたのだと嬉しくなり、より一層ヨツミさんに惹かれていったのだった。

3.「村雨アスタ」

というようなことを、僕は『アスタリスクの花言葉』の9部屋目、「村雨アスタ」の自己紹介を見ながら思い出していた。
眠気に堪えながら謎を解き、最後に出会ったのは「人間ヨツミフレーム」さんだったからだ。
思えば謎解きをしている最中、僕はずっとヨツミさんのことを考えていた。
一緒に謎を解いた周りのフレンドもそうだと思う。
僕らはまず、「あのヨツミさんなら何をするか」を考えていた。完全なるメタ読みだった。そしてことごとく裏の裏をかかれた。
難しい箇所に躓けば、「おのれヨツミフレーム!」「ここを開けてくれヨツミさん!」という悔しさをぶつけた。
謎が解けて、その論理性や構造に気づいたときには、「凄い!」と感嘆の声が漏れた。

しかし、動画を見ているときの僕らはとても静かで、言葉を真剣に受け止めようとしていた。
「村雨アスタ」は切実だった。
生きてる嬉しさと、終わりを迎えて死んでく切なさが、彼女の言動には同居していた。

自己紹介では性格診断結果を読み上げていた。
INTJ型だという。
普段なら性格診断系の結果は、話のタネくらいで気にならない。
だが自分からこういう人間だと渡されるのは、別の意味がある。
その結果に自分を託し、そう見て貰いたいという願望がある。
https://www.16personalities.com/ja/intj

INTJ型
”「建築家」型の性格
この上なく「孤独」、そして最も希少で戦略に長けている性格タイプのひとつで、建築家型の人達自身、これをすべて痛いほど感じています。”

「孤独」の文字が、特別脳裏にこびりついて離れなかった。

4.「製作者」の孤独、「観察者」の孤独

ヨツミさんは孤独とどう向き合ってきたのだろう。

確かにヨツミさんは、同志を求めていたようにも思える。
村雨アスタの動画で、APIやshaderの解説を丁寧に分かり易く伝えてくれるのは、「こっちに面白いものがあるよ」と、誘ってくれているようだ。
私に見えている世界、面白いと思うものを共有したい。そんな思いを受け取った。

僕の人生と比べるのは失礼だとは思う。
しかし、妄想は膨らむ。
ヨツミさんはこれまで「孤独」をどうやりすごしてきたのだろうか。
自分が大好きなものを誰かに勧めても、自分が感動したものの話をしても、誰にも何も伝わらなかったとき。
悔しさから殻に籠りはじめたとき。
自分だけにしか分からないという優越感と、時に、それを虚しいと感じたとき。
そんなとき、ヨツミさんはどうやりすごしてきたのだろう。

「データベースの解説ブログ」に現われた「観察者」の視点は、どこからきたのだろう。VRChatで遊んでいる限り、真の意味で「観察者」を徹底することは出来ない。
観察する対象に、VRChatで遊んでいる自分が含まれてしまうからだ。
対象のデータを集め、解析した先に、自分を見たことはあっただろうか。
観察対象が外から内に反転して、自分とは何者なのか、今何にむかっているのか、「観察している私は誰だ」という疑問。
その答えに、言葉が詰まる瞬間はあっただろうか。

「1%の仮想展」のインタビューでヨツミさんが最後に話してくれた内容を思い出した。

”この「1%の仮想」の最大の欠落は「私がVRCで一番見たいものを自分で作ってしまった(=見る側としては楽しめない)こと」なんです。”

楽しむ僕らを見ていて、ヨツミさんは「孤独」を感じていたのだろうか。
「孤独」と聞いて、僕はそんなことをイメージしていた。

Q.なぜヨツミさんは『アスタリスクの花言葉』を作ったのか

最後の動画を見終わって、僕は静かに泣いていた。
ヨツミさんが隠してきた大切なものに触れた気がした。
でも、それが何か分からなかった。
あまりに切実な「何か」を受け取ってしまった感覚だけが、クリアした今でも残っている。
謎解きの後には、大きな謎が残った。
その謎を解くために、僕は今、この記事を書いている。
それは、「ヨツミさんはなぜ『アスタリスクの花言葉』を作ったのか」という謎だ。

考察1.「孤独」と「エゴ」

なぜ『アスタリスクの花言葉』を作ったのか。
謎を解くキーワードとして「孤独」と「エゴ」が頭に浮かんだ。
作者の人間性を「勝手にでっちあげ」それを元に作品への視点を獲得してみる。だから全て僕の妄想で、共感できるものは無いかも知れない。
本来なら作者 ≠作品で、作品の自立性から感想を持ちたい。
でも、『アスタリスクの花言葉』を作品単体として見ることは、僕には出来ない。
それは前述した通り、『アスタリスクの花言葉』で出会ったのは「人間ヨツミフレーム」さんだったからだ。

Twitter上では、「VRChatやSNS自体をテーマにした作品」と評し、絶賛している感想があった。
確かに納得する部分もある。
でも、批評的な観点から制作した作品として、認めたくない。
今回は作品として見ることで、見落とすことの方がきっと多い。
作者の人間性と、作品の自立性をはっきり分けることで、抜け落ちてしまう部分にこそ、僕は涙を流したんだ。

考察2.作品に何を込めたのか

そもそも、批評的な観点から作品を見ていくと、あまりに素直すぎる構成をしている。
各謎解きパートには、正に普段僕らがVRChatで楽しんでいる日常そのものを、謎解きの構造に組み込んでいる。
そこに新たな視点や価値が提示されていたわけでは無い。
ヨツミさんが説明していたように、謎解きを通してVRChatの楽しみを共有することが目的だったのだろう。
この楽しさを、僕らは既に知っている。

それは、『アスタリスクの花言葉』の謎解きが、「VRChatの日常の追体験」であることを意味する。

だからこそ批判者が、既に僕らが楽しんでいることを、謎解きに長い時間をかけさせられた、と切り捨てたくなる気持ちは分かる。

だけど多分、ヨツミさんならもっとスマートに、分かり易く作品化することが出来たはずだ。
前作の「1%の仮想展」では、シェーダーやパーティクルといったギミックそのものの面白さを、人に分かり易く伝えていた。
実際に前作からの期待もあって、ワールドアップロードと同時に記録的な同時接続数を叩き出した。
そのプレゼン能力の高さをあえて切り捨てたような今回の謎解きは、賛否両論の核の一つになっている。
「1%の仮想展」のように広く、VRで生活しているものなら万人に受け入れられるように設定された前作とは逆に、
脱落者や非難がある程度出ることは計算に入れた、覚悟の上の構成だろう。
では、代わりに得たかったものは何か。

考察3.「孤独」と「課題」

「1%の仮想展」で行ったインタビュー


”この「1%の仮想」の最大の欠落は「私がVRCで一番見たいものを自分で作ってしまった(=見る側としては楽しめない)こと」なんです。”


という言葉が本当にヨツミさんにとって失望だったとすれば、今作はそれが課題になっていたはずだ。
自分が居なくても、確かにそこに自分を存在させること。
自分で制作してもなお、見る側として皆と同じように楽しめるようにするために、『アスタリスクの花言葉』を作ったのではないかと考えた。
そしてそれは、作者の大変なエゴでもある。

ヨツミさんが『アスタリスクの花言葉』の公開直前に記したブログ「世界は私たちに遍在する」には、「作者のエゴ」についてこんな記述があった。


"「謎解き」というジャンルのコンテンツは基本的に「エゴの塊」です。
よくある謎解きゲームでは、いろんなところに散らばった数字・記号や単体では何ら意味のない物を組み合わせて「作者が答えてもらいたい何の意味もない答え」を作ります。
これってかなり自分勝手じゃないですか?
(中略)なにはともあれ、「VRエンターテイメントのキラーコンテンツは『人』」です。
(中略)このワールドも、そんな「人と接する」ためのひとつのきっかけになれば幸いです。"
https://y23586.net/2019/09/03/925/

ここでいう「人と接する」というのは、勿論『アスタリスクの花言葉』で同じインスタンスに居る人たちのことを指しているだろう。
しかしヨツミさんの立場に立てば、「作者と鑑賞者が接する」ための言葉にも聞こえてくる。
「一緒に居たい」「忘れないで欲しい」という作者の(そして村雨アスタの)「エゴ」を通すのに、謎解きというモチーフが必要だったのかもしれない。

またひるがえって僕らの立場に立てば、その「エゴ」は、僕らが普段接するフレンドたちに思う気持ちそのものだ。
ヨツミさんが僕らに、村雨アスタが僕らに、僕らがフレンドたちに、人生で関わった人たちに思う気持ちと、全て重なっている。
だから村雨アスタの言葉は、僕らにはとても切実に聞こえていた。

考察4.誰とVRChatの日常を追体験しているのか

決して短くない時間、僕らは謎解きに熱中していた。
謎解きは難易度が高く、僕一人では決して解けない。
一緒に謎を解いたフレンドたち、そしてそのフレンドのフレンドたち。
まるで集合知のように、集まっては試行錯誤していくこの空間とは別に、「ここには居ないある人物」を思っていた。
僕らが謎解きの間に思い描いていた共通の人物。

作者であるヨツミフレ―ムさんだ。

僕らは、頭にヨツミさんを思い描きながら謎を解いていた。
どういう謎を設定してくるか、人物像と過去の思い出を元に、謎を解いていた。
前述したように、『アスタリスクの花言葉』の謎解きが、「VRChatの日常の追体験」を目的としていたら、

「各々の思い描いたヨツミさん」と一緒に、僕らは『アスタリスクの花言葉』の謎を解き、VRChatの日常を追体験した。

この体感こそが作者のヨツミさんが得たかったものではないか。
批判の対象となった攻略時間や難易度は、作者があなたと一緒に居たいという欲求が反映されていたのではないか。
その想いは村雨アスタの姿を借りて、僕らに語りかけていた。
一緒に過ごす楽しさと大切さを、忘れないでという願いを、彼女は謎解きの思い出と共に語るのだ。

作者であるヨツミさんの視点から見れば、ヨツミさんを全く知らなくても、同じような体験が出来るよう構成されている。
最後の部屋で村雨アスタが、僕らが解いてきたように、また一から一緒に謎を解き、解説している。
40分にも及ぶその映像は、謎を解いていた僕らの思い出と重なって、村雨アスタの痕跡を再確認する。
村雨アスタがまた、僕たちの謎解きを追体験するのだ。
追体験の連鎖はワールドが存在する限り無限に続いていく。
フレンドのフレンドのそのまたフレンドが、『アスタリスクの花言葉』というVRChatの日常を追体験し、そのすべてに村雨アスタ=作者(ヨツミフレームさん)が居る。

『アスタリスクの花言葉』は、「僕らとヨツミさん」のVRChatの日常を作り出した。

考察5.ラブレター

「一緒に居たい」「忘れないで」それはほとんど愛の言葉だ。口にすれば、愛の告白になる。
一緒に『アスタリスクの花言葉』をプレイしたフレンドの一人である@Kanata_VRCさんは、プレイ後の感想をこう記している。

”クリアしました。いまは何も言葉が出てこない。1年かけてしたためた、すべての "Virtual Being" へ向けたラブレターなんだから”
これに対し、僕はこう記した。

kanataさんと僕は、ほとんど同じことを言っていると思った。勿論繋がっている。
でも、この記事を書くにつれ、そして「『アスタリスクの花言葉』がラブレターの様だ」と受け入れられていくにつれ、僕にはその微妙な差異が気になっている。
「ヨツミさんが、「私」に向けたラブレターである」と思えるかどうかの違いだ。
一つ例え話が浮かんだ。

あなたが登校して下駄箱を開けると、1枚のラブレターを見つけた。
嬉しくなり舞い上がって教室に向かうが、宛名は確認しただろうか。
ヨツミさんはその日、全部の下駄箱にラブレターを入れていたのだ。
それも一点の曇りも無く、真剣に真心を込めて丁寧に、1年かけて。

それは果たして「ラブレター」と呼べるのだろうか。
もし「ラブレター」ならば、それは作者と僕(あなた)の物語になるはずだ。
一人と一人の、二人の物語である。
『アスタリスクの花言葉』では、村雨アスタと僕である。

ではなぜ、村雨アスタがラブレターを送ってくれたのに、僕は村雨アスタとフレンドになれないのだろう。

作者であるヨツミさんとはフレンドだ。でもそれでヨツミさんが満足するなら、なぜ1年もかけて村雨アスタを作ったんだろう。
言いがかりの様に聞こえるだろうか。

特定の誰かと、特定の私に限界があったからこそ選んだ演出が、『アスタリスクの花言葉』にはある。

考察6.私たちと、あなたたち

ヨツミさんからのラブレターだと感じるのは、ヨツミさんと村雨アスタが、ネタ晴らしのように作中に登場することが大きい。
なぜ作者は姿を現したのか。
ひとつは、「作品上」で村雨アスタとヨツミフレームさんが別人格であると決定づけること。
そしてもうひとつは、こちらが本題だが、作者と作品の結びつきを強くすることである。

そもそも作中で作者の存在を匂わすことは諸刃の剣で、ほとんどがシラケに繋がってしまう。有名なネットミームに『くぅ〜疲れましたw』があるように、時には痛々しく感じてしまう。
https://dic.nicovideo.jp/a/%E3%81%8F%E3%81%85%E3%80%9C%E7%96%B2%E3%82%8C%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9Fw
しかしVRChatにおいて、作者と作品の繋がりというのは、それ自体が一つの文化となって創作の要になっているように思える。
アバター集会で、アバター作者と一緒に楽しむことが出来るのは、VRChatの楽しさの一つだ。
全く知らない他人の作品よりも、知ってるフレンドの創作物が愛おしく感じるのは当たり前で、その想いそのままに、作者とコミュニケーションがとれる。
VRChatの作品の作者は、VRChatの世界のどこかに必ずいる。会うことが出来る。
作品は、作者と強い繋がりをもって生まれてくるのだ。

『アスタリスクの花言葉』は、その繋がりを更に強調している。
しかし、主語が決定的に違う。
象徴的なシーンがある。

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このシークエンスは、ヨツミさんの過去のアバター3体を、一人ずつ村雨アスタが呼びかけて謎解きの解説をするものだ。
まるでテレビ中継の現地レポーターのように登場する彼等は、全て同時に存在し、その全てがヨツミさんである。
ここで強調されるのは、このワールドを作ったのは一人の作者では無く、複数人の私たちであるということだ。

私(作者)とあなたではない。
私たち(作者の分身、アバター)とあなたたちの物語であると伝えている。

その関係性は、ラブレターの関係性だろうか。
愛を信じ、誓い合う二人の関係性から脱却した先に、ヨツミさんの目指したエゴの形はあるのではないか。

考察7.世界は私たちに遍在する

ヨツミさんが『アスタリスクの花言葉』公開直前に記したブログ「世界は私たちに遍在する」には、こんな一節がある。

"遊ぶ前と後ではVRChatやこの文章でさえも全く違ったものに見えるような、そんなものを目指しています。"

謎解きの最中、私たちは様々な遍在する世界を横断した。
VRChatを離れて映画を見たり、他のワールドに行ったり、他のVRSNSを遊んだり、そこではそこの時間が流れており、そこに私が居なくても、依然として存在し続けている。
それはまさに「世界は私たちに遍在する」ように思える。

だけど、なぜ、主語が「世界」なのだろうか。

『アスタリスクの花言葉』をクリアした後、ずっと気になっていた。
「世界」が主語なのは、ヨツミさんの「観察者」としての視点だ。
そこに生きる僕らから見れば、「私たち」が主語である。
だから逆転させてみる。

「私たちは世界に遍在する」

この文章は成立するだろうか。
基底現実に生きる僕らが、世界に遍在していると実感するのは、難しい。
私が複数人いる感覚、その全てが私であるという自信。これは空想上の話で、そのように自分を捉えたまま生きるのは困難だ。
僕は僕であるという意識が無ければ、生きている感動も無くなってしまうだろう。

しかし『アスタリスクの花言葉』という作品の中では、それは可能だ。
なぜなら前述したように、作中ではヨツミさんもまた、3人のアバターと一人の村雨アスタとして存在し、「僕らとヨツミさん」のVRChatの日常を作り出し、ヨツミさん(たち)が遍在しているからだ。
「私(ヨツミフレーム)たちは世界に遍在する」
だから、あなたたちにも同じことが言える。

「私(あなた)たちは世界に遍在する」

考察8.世界に遍在`したい`ヨツミフレーム

作中で、特に印象に残っているセリフがある。
村雨アスタは言う

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”どんなに「こちら側の世界(VRChat)」にのめり込んでも、どんなに言葉を交わして、もしかしたら現実世界で会ってみても、「こちら側で生きる必然性は」はたぶん今後もありません。"

その通りだと、僕も思う。でもそう言い切ってしまうのは怖かった。
少し切ないけれど、疑似的な現実としてVRChatがあって、しかしそれが現実のように思えるほどのリアリティだから、人と接するときは気を遣うし、繋がれた時は楽しい。
時には愛さえ生まれることもある。
だけど多分、VRChatに居続ける必然性は、今後も生まれないだろう。僕らが「人」を愛する限り。
ただしこれは、基底現実に生きる僕らに、「人間ヨツミフレーム」さんに当てはまるセリフである。

村雨アスタには、ヨツミフレームには、”「こちら側の世界」”は必要だ。
今振り返ると、このセリフ自体が反語のように感じられる。
VRChat上に存在しているからという理由だけではない。
「私たちは世界に遍在する」そのエゴを実現させるためだ。
それは『アスタリスクの花言葉』でしか実現出来ない、エゴの形だったからだ。

自己表現が苦手だと村雨アスタは語った。
いや、より正確に言えば、「人生戦略的に不利になるのを避けるために、自分の想いを外に出さない」のだと語った。
だから自分の「代わり」に作品をつくって外に出す。そしてVtuberという形なら、あなたたちに語り掛けられるのだと。
村雨アスタの言葉が、「人間ヨツミフレーム」さんの言葉だと捉えるのは、自然なことだろう。

作品が「私」のように存在して欲しい。そう願った。
自分の遍在を願って作品を作ってきた。
「世界に遍在`したい`」
基底現実に生きる僕らには、無理な話だと思う。
だが、出来ないからこそ”「こちら側の世界」”で祈る。
祈るように作品を作る。
そこに1年という長期間と、膨大な工数を懸ける。

『アスタリスクの花言葉』とは、「世界に遍在`したい`」と願ったヨツミさんの祈りそのものだ。


考察9.ラブレターの行方

逆説的だが、やっぱりヨツミさんにとって、『アスタリスクの花言葉』は「ラブレター」だったのかもしれない。
私が遍在しても、特定の一人と一人の関係性でなくとも、私たちとあなたたちの関係性でも「ラブレター」を受け取ったと思ってもらえるなら、
それは、僕らが『アスタリスクの花言葉』にヨツミさん(たち)のエゴを認めている証拠だ。

作品上でのみ成立するエゴの形。基底現実では決して成立しない「ラブレター」に、僕は心を動かされた。

追記1.19/12/30


ヨツミさんの『アスタリスクの花言葉』制作日誌、「#アスタリスクのイト」が公開された。僕はまだ読めないでいる。
僕はヨツミさんに直接、「いつか感想をちゃんと書くから!」と言っておきながら、クリアから三か月が経過してしまった。
その間、僕は考察9まで書き上げて、放置した。
出来に満足いかず、とても不安だったからだ。
ヨツミさんのことを悪く書いた気はないが、気に障るような文章があるかもしれない。
村雨アスタのセリフを借りると「人生戦略的に不利になる」
怖い。

こんなことを思うのは、僕が僕であるからだ。
自分の書いた記事が、自分であるように、いや、もっと正確に、もっと分かり易く存在してくれたら、どれだけ救われるかと思う。
作品に自分を投影させるのは、決して希望的な話だけではない。
上手くいかない。誤解される。そんなこともあり得るのだと再認識する。

ヨツミさんも、怖かったかも知れない。「#アスタリスクのイト」には、それが書いてあるだろうか。
普段自己表現しない代わりに、作品に自分を託すということは、それだけ慎重になるだろう。
結局、体一つで自己表現をしようが、外部の作品という形で自己表現しようが、自分を受け入れてもらう、エゴを通すというのは、同じように怖いものである。
そこに自意識が介在している限り、僕は常に恥ずかしいし、不安から逃れられない。

そして「#アスタリスクのイト」が公開された今、この記事にはどんな意味が残っているのだろう。
僕は、ヨツミさんの言葉の立場をあえて逆転させて妄想してきた。
観察者になり切れないことを、世界に遍在’したい’と読み解くことを。
そしてそう、書きながら気付く。

これは全て、僕の妄想なのだ。

僕が思うヨツミさんは、どこに居るのだろう。
自分で書いてきたように、僕は今、「孤独」を感じている。
”自分だけにしか分からないという優越感と、時に、それを虚しいと感じたとき。どうやりすごしてきたのだろう。”
「ヨツミさんは観察者になりたい」と僕が妄想したように、僕はヨツミさんの「観察者」として妄想した。
自分で書いてきたように思う。"観察対象が外から内に反転して、自分とは何者なのか、今何にむかっているのか、「観察している私は誰だ」という疑問。”
僕はヨツミさんにそうあって欲しいと願っているんじゃないだろうか。
「エゴ」に「孤独」に、一番敏感なのは、僕なのではないか。
僕こそが、「孤独」で、どうしようもなく「エゴ」を通したいのではないか。だから、ヨツミさんの妄想という形を借りて、僕自身をそこに投影して、勝手に涙しているのではないか。

世界に遍在'したい'と、心から願っていたのは僕だ。

この思いはループする。
妄想と自己投影を繰り返し、永久に抜け出せない。その三カ月間。
相手のことを考えているようで、結局は自分のことを考えて、それを当てはめているだけだと思う。
結局相手の事を知ることが出来ないでいる。



そんなのは嫌だ。



話をはじまりに戻す。

僕はヨツミさんのことを十分に知らない。
でも興味があった。惹かれていた。
だから妄想して、ヨツミさんの真意に近づこうとした。
この記事を、まるで「人間ヨツミフレーム」さんであるように書いてきた。
でもそんなこと不可能だ。

僕には妄想癖がある。
村雨アスタが作品に「私」を込めていたように。
僕は妄想を、まるで「あなた」のように作り上げる。
十分に知った気になって、あなただと思い込む。
僕にとっては、みんなは常に「遍在」している。
妄想の「あなた」と、目の前の「あなた」が同時存在している。
多かれ少なかれ、みんな先入観や記憶を頼りに、誰かを作り上げているだろう。
危険なのは、そのどちらかだけを見てしまうことだ。
0と1で見るのではなく、それはグラデーションのように、「遍在した」妄想と目の前の「あなた」が交じった「虚像」として、僕の前に現れる。

そう頭で分かっていても、『アスタリスクの花言葉』で、僕は一瞬希望を見たのかもしれない。
それは多分、曲解した希望だ。
妄想だけを見ようとしてしまう。自分の妄想を現実と同じように「遍在」させて、妄想の中で生きること。僕が今までやってきた悪癖が、そのまま世界を充実させる術になったら、こんなに幸せなことは無いからだ。
どんなに妄想しても、それは妄想でしかない。『アスタリスクの花言葉』にあったような、ラブレターを受け取った感覚。まるで隣にいるフレンドから直接言われたような感覚には、どうやってもなれない。
当たり前だ。世界は常に変化している。どんなに知った気になっても、同じものは作れない。


ヨツミさんは『アスタリスクの花言葉』上で遍在した。「人生戦略的に不利」にならない形で、エゴの形を成立させた。
作品上でしか成立しない奇跡のような瞬間を、僕は美しいと思う。
『アスタリスクの花言葉』は美しい。

だけど、ヨツミさんは満足しなかった。
『アスタリスクの花言葉』を公開した後も、彼はVRChatにインして、また面白いことを考えて、情報を観察している。

ヨツミさんのブログ「世界は私たちに遍在する」にはこう記されている。


”「VRエンターテイメントのキラーコンテンツは『人』」です。 VRChatを楽しんでいる人のほとんどは「人と接する」ことを楽しみにして毎日せっせとHMDをかぶっていると思います。
どんなに美麗なワールドを作っても、それは人と接するための場所、いわゆる「添え物」であって、コンテンツの本質ではありません”

僕も満足しないでいよう。
知った気になって、妄想に囲まれて過ごすだけでは満足できないと分かっている。

僕がなんでHMDをかぶり、VRChatを起動するのか。
それは常に変わり続け、「決して遍在しないあなた」に会いに行くためだ。
僕に今まで関わってくれた人たち、イワシクラスタのみんな、挨拶してくれるフレンドたち、そしてこれから出会うであろう多くの人たち。
みんなの事を、僕はまだ十分に知らない。
妄想で、「あなた」を遍在させるほど、十分に知ることなんて今後絶対に無い。
僕は「あなた」に興味がある。惹かれるものがある。
必要以上に怖がらないようにしよう。
基底現実では成立しない「ラブレター」を渡せる世界なんだ。色んな形でコミュニケーションが取れる。
そこには愛の言葉なんて、そんな大げさなものじゃ無くてもいい。
「忘れないで」
そんな言葉が、僕にはちょうどいい。

このあたりで妄想のループは止めにする。
また新しい変化が、知らないことが溢れている。

だから僕は、HMDをかぶり、VRChatを起動する。

これは妄想ではない。唯一の事実として、はっきりとここに記す。

僕はまだ、ヨツミさんの事を十分に知らない。


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