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期待って呪いにもなるし最高のプレゼントにもなるよねって話

期待。それは一見、希望の色に染まった綺麗な言葉のように見えます。

でも、実際はちがう。明るい華やかな色と暗い汚い色が中途半端に混じり合った、マーブル模様をしている、中途半端な言葉。

とある方のnoteで期待について書かれたのがきっかけで、私も期待との向き合い方についていろいろ考えるようになりました。今回は現状の考え方のまとめ的な記事です。

いつもとおなじく、結論は出ません。あらかじめご了承を。

ああでもないこうでもないって話が好きな方、ぜひお付き合いください。


期待って何?

そもそも期待ってどんなことなのでしょうか。Google先生に聞いてみました。

き‐たい【期待】
[名](スル)あることが実現するだろうと望みをかけて待ち受けること。当てにして心待ちにすること。「期待に添うよう努力する」「活躍を期待している」
(小学館デジタル大辞典より引用)

ふんふん。なるほど。フワフワしていてよくわからない。

私の中では、期待は矢印です。自分から物、友人、恋人、家族、未来の自分へと向けられた矢印。その向きは逆もしかり。

今まで生きてきて、いろいろな期待の矢印を向けてきたし、向けられてきました。期待されることで深い愛情を得られたこともあれば、期待してひどく裏切られて傷ついたこともある。

そんな諸刃の剣な期待だけれど、生きていく上で切り離せないものであるのでしょう。「期待とは一生しつづけてしまうもの」と、その方のnoteに書いてあって、まさにその通りだと思いました。だからこそ上手く付き合っていきたい。人生を諦めないためにも。


「頑張れ」という呪い

他者に期待を伝える言葉の代表例に「頑張れ」があると思います。

私は昔から人に「頑張れ」と言うのが苦手です。

私だけかもしれませんが、人から「頑張れ」と言われたとき、もちろん嬉しいのですが、自分が誰かから期待される分、その期待に応えようというプレッシャーが重くのしかかってきて、息苦しくなってしまう。

その息苦しさは世間一般には「ありがたいこと」とされているから、喜んで押し潰されるしかないのだけれど、実はつらい時もある。

考えすぎかもしれませんが、この自分の経験から他者に期待を伝えてしまうのを恐れてきました。

なんだか、期待というのは、その人の方向性を自分が定めてしまうような気がしてしまって。

ある人がAという目的地に向かって頑張っているとき、「頑張ってね」とか「応援しているよ」といった言葉をかけたくなります。

その人にとっての真の目的地がAなら、この言葉はプラスにちゃんと働いてくれるのだけれど、実はAではなくBという可能性をその人自身が感じていたなら、これらの言葉はその人にとって「Aを目指さなければいけない」という呪いとなって縛ってしまうかもしれない。

うーん、書いてみて思ったのですが、ぐるぐる考えすぎている気がします。単純に「頑張れ」と言われたら嬉しいので、気楽にかけてください。


目的地=意味づけ?

そもそも、何か努力する時には必ず目的地があるのだから、本人はそれに自覚して動いていることが大前提だと考えられている。

でも本当にみんながみんなそうなのでしょうか?

道行く人100人に「どこに向かって生きているんですか?」って聞いたなら、100人全員がはっきりと答えるだろうか。多分、ない。

みんな今の行き先を教えてくれるだけで、「今歩いていることが~~することにつながって、○○という夢を叶えるんです」って答えてくれる人はなかなかいないと思う。

今になって「過去のあの出来事が今のこういうことに繋がってるな。やってて良かったな」って思うことはたくさんあるけれど、それはある程度の時間が経ったあと、出来事が過ぎ去ったあとに行う単なる意味づけでしかない。

行動を起こすときに100%未来や人に良い影響をもたらすと思うことには意味が無い。

意味が無いからと言ってやらないのが正しいわけではないけれど。


「期待」という動詞

人への期待の扱いは難しい。

それが大きな喜びになれば、虚しく散ってしまうこともある。

でも、その行為をもたらす感情は素晴らしいもの、讃えたいものだと思うんです。

もし、期待が単なる動作で、好意を伝える手段にすぎないのなら、その動作をもたらしているのは「好き」という感情です。

期待という矢印に乗って好意は送り届けられます。

そう考えると、期待の形はそれぞれだけれど、裏にある好意をはっきりと伝えられたら、その人にとっては最高のプレゼントになるんじゃないでしょうか。

期待って案外悪いもんじゃないかも。


「期する日まで待つ」

期待の形にもいろいろあります。

たとえば、「頑張ってね」「応援しているよ」と言葉をかけることであるような、その人へ努力を促すように自分から働きかけるもの。自分から「行動」するもの。

これは良くも悪くも、同じように「行動」という見返りを求めていると思うんです。だから、「行動」になって返ってこなかったときに報われないむなしさを感じてしまう。

だから期待なんでしないほうがまし。そんな風に考えていたけれど、そもそも期待の形はこれだけじゃないことに気づきました。

私の友人に、書くことと人の悩み相談に乗るのが趣味という、いっぷう変わった子がいます。

その子は、「信じて待てる人になりたい」とよく言っています。

今他者に向けた期待は、形になって実っていないかもしれない。そのせいで、報われないと感じることもあるかもしれない。

でも、もしかしたらその期待の矢印はその人に届いていないだけで、明日にでも、5年後にでも、10年後にでも、その人が亡くなる直前にも届く可能性はきっとある。

それまで、私も待ちつづけたい。そんな期待の形もあるんだと、教わりました。

期待を向けられた人にとっても、5年前、10年前からの贈り物がタイムカプセルのように届いたなら。「好意」のしるしとして期待を贈れたら、最高のプレゼントになりそう。

いつ届けられるかわからないけれど、とりあえず送ってみるのも案外悪くないかも。

期待の消費期限は思っているより長いのかもしれません。


またまたああでもないこうでもない話を繰り広げてしまいました。

答えは相変わらず出ませんが、これはこれで面白いです。

まだ20年ちょっとしか生きていませんから、もう20年したらもっと違う見方になっているのでしょうか。ちょっとだけ期待しときます。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。




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