『どうする家康』どうなる。

今年の大河『どうする家康』がスタートしてひと月と少し。まだ、評価がしづらい。出てくるキャラクター、演出、脚本、すべてが私には過剰なてんこ盛りである。言うなれば、スポンジの何倍もの生クリームがデコレートされたケーキみたいなもの。一歩間違うと胃もたれを起こしそう。
あくまでも、私には、である。

前回の服部半蔵と本多正信の登場回について考えた。この回、半蔵率いる服部党の顛末が主で、主人公の元康(のちの家康)はほとんど出番がない回であった。
この服部党、スタッフに『平清盛』のメンバーがいるためかそのビジュアル含めた描写が、兎丸とその仲間を彷彿とさせる。RPG的というか、創作を大いに盛り込んだテイスト自体は別に悪くない。あっという間に退場になってしまったけど、彼らの人物像も悪くなかった。
私が思ったのは、この話は元康が主人公ではないのか?ということである。元康は今回、自分の判断で元信の案にのり、半蔵に瀬名と子どもたちの奪還を命じた。そしてあとはただ、信じて待つだけしかできないのが今回の元康である。
元康の「待つだけ」というもどかしさ、託した半蔵たちが「失敗して帰ってきた」という現実。そして、半蔵が大切にしていた仲間たちがそのせいで何人も犠牲になった、という事実。ここをもっと描くべきだったのだ。なんなら、服部党の描写はごっそり要らない。描くなら、彼らが失敗して帰ってきた、そのあとに彼らの口から語られる回想として挿入したほうが良かったのではないか。

元康はまだ、未熟でぼんやりとした若き領主である。
三河の民が重税に苦しむ様子を見ながら見向きもせず、それどころかその原因のひとりでもある今川義元を無条件に心酔し、そのあとも頭には瀬名と子どもたちのことしか頭にない。駿府での人質生活がよほど過不足のない心地よい時間だったのだろう。だから突然領主と担ぎ上げられても、家臣、領民というものがまったく実感できていない、ふわふわとした状態でいる。
妻と子を助けたいのだ、という未熟な領主の個人的な願いを、家臣たちは聞き入れた。そして元康はその個人的な願いを叶えるため、正信の案を自らの決断で採用する。
その結果、何が起こったか?
本来なら元康は、「自分が決断した結果、起きたこと」にもう少し目を向けなければいけないのだ。「結果として起きたこと」は、妻と子の奪還に失敗したことではない。「元康の個人的な願い(=元康の命令)」のために「命をかけた家臣(=服部党)」が「何人も死んだ」という事実である。そして、領主の無茶振りに応えようとして郎党を失った半蔵の痛みを、元康は「領主として」知らなければならない。彼らがなぜ、身を危険にさらしてでも仕事をするのかという理由も。
それもまた、領主としての成長の一歩だろう。
しかし、元康がそれを知る──そして心を痛めるような描写はなかった。

小高の城で信長の来襲にぶるぶると震え家臣を捨てて逃げ出し、家臣も領民もそっちのけで駿府に帰りたいと泣き喚いた元康である。そんな簡単に、人の性根は変わるものではない。
なんなら前回も「なぜ助けられなかったのか」と逆ギレで半蔵を叱責するぐらいの身勝手さが、この話の元康であろう。そこで石川数正にきちっと叱ってもらう。「殿がお命じになったのですよ」と。だから正信はだめだと言ったじゃないか、そういう家臣たちとも向き合わねばならない。瀬名だけでなく、駿府で殺された人質の女・子どもたちにも思いを馳せなければならない。そうすることで元康は少しずつでも、領民や家臣に視野を広げ、領主として成長していくはずなのだ。
本来、第5話はそのターニングポイントになりうる回だった。しかし、山田孝之と松山ケンイチという豪華な共演に、製作陣の欲が出てしまったのだろう。彼らの活躍をメインに据えてしまった結果、元康の主人公像はぼやけてしまった。


そう考えると彼の主人公像は、第4話で既にぼやけはじめている。1話で震えが止まらないほど怯えた信長と、案外平然と対峙してるな、ということだ。小高の城での様子ではもっと深刻なトラウマが植えつけられているのかと思ったけど、案外にそうでもない。ならばなぜ、1話で城から逃亡するほど怯えたのか。
清洲城での元康は、信長に対してもっと怯えてよかった。「わしは会いにはいかない、数正が行け」とごねて数正に叱られるくらいがこの話の元康であろう。清洲の階段を登る足は鉛のように重く、久しぶりに眼前にしてみればがたがたと身体の震えがとまらない。脂汗で手のひらがぐっしょりになり、ろれつもおかしくなる。
それくらいの「恐怖」を元康が表していれば、信長の畏怖は十分に伝わり、平手打ちももっと違った見え方になる。刀を握り返すシーンでも、毅然と返しながらまだ手は小さく震えている──そのほうが、信長という大きな壁を少しずつでも乗り越えていこうと弱い心と懸命に闘う元康が見えてくるはずだ。
しかし、この元康はすんなりと乗り越えてしまった。いや、人質時代の回想ですでに彼は信長に立ち向かう勇気を見せている。だとすればよけいに1話での恐怖の描写との整合性がとれない。

『どうする家康』は、もっと、凡庸な元康を徹底的に描くべきなのだ。気弱で自分本位、事なかれ主義、本当は責任なんか負いたくない。領主なんて責任ある立場などまっぴらごめん、みんなが言うから自分がそれをやらざるをえない、なんで、なんでと──そこをもっとみっともなく、これでもかと描くことで元康の成長と人物像は立体的になってゆく(ただし、そんな男をお市の方が好きになるかという別の問題は出てくる)。
自分の思惑ひとつであっけなく死んでしまう命があること、大事なものを失っても、それを領主の命令だからと飲み込む家臣たちがいること。その痛みを共有できたとき、駿府での恵まれた人質生活から元康はようやく一歩、外へ出て、信長とも向き合う力にと変わってゆく。
非凡なものがあるからこそ、信長やお市、氏真に執着されるのだろう。しかし彼の覚悟、精神の成長は、もう少しあとに描写されてこそ、この話の元康なのではないかという気がしている。

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