映画『ハウルの動く城』と鎌倉殿最終章(主に『鎌倉殿』のこと)。

昨日、宮崎駿監督の『ハウルの動く城』を地上波で放送しておりました。好きな映画ではあるんですが、解釈の難しい映画というか、妙に釈然としないところが残るというか、そういう映画でもあるなあと、前から思っていました。

それで、youtubeで岡田斗司夫さんの解説動画を見てみました。この方の『千と千尋』の解説動画がすごく目から鱗で、もちろん宮崎駿さんの意図が本当にそうなのかはわからないところもあるんですが、それよりも宮崎駿監督の映画に、表層的な印象だけではなくその裏側には論理的に読み解ける緻密な構造がある、他者がそう解釈して齟齬がないことが凄いなあと思うのです。
さて、『ハウル』の解説で岡田斗司夫さんが、「この映画は非常にわかりづらい。なぜかというと、ほぼほぼソフィの視点で描かれているから」と言い、「主観で描かれた映画がいかに難しいか」ということの例で「例えば『カリオストロの城』がクラリスのみの視点で描かれていたらどうか」と試しに解説されています。
岡田さんの話の詳細はYouTubeを見ていただければと思うのですが(検索すればすぐに出てきます)、私もなるほどなーと思いまして、『ハウル』の何か釈然としないわかりづらさがほぼソフィの主観で描かれているため、というのがストンと腑に落ちたわけです。

で、これって実は鎌倉殿の40話以降にもあてはまるロジックなのかなと思い至りました。
『鎌倉殿の13人』も、39話以前というのはわりといろんな人物の主観が網目のように織り込まれているんですが、40話以降というのはほぼほぼ話が義時の主観に絞られていく──というか、そう考えると腑に落ちる描写がいくつもあるのです。
前回の記事で、私は実朝に関してもう少し描写のしようがあったのではないかと書きました。でもそれらが省かれたことがもし意図的とすれば、それが義時視点の世界だからと考えれば納得いくわけです。実朝に限らず、泰時の描写に関してもそうです。
鎌倉殿の義時からすれば、実朝は特定の御家人とだけ仲良くし便宜をはかってやろうとしたり、「西」に傾倒していく少し危うい人物として映っています。政に関してもまだまだ未熟。でもこれはあくまで「義時の主観」なわけです。だから、「実朝がなぜ西に御所を移したいと思っているか?」の理由もわからないまま実朝は死んでしまいます。つまり、義時は実朝の真の姿を何も知ろうとしないまま彼を見捨ててしまった、ちょっと、というかかなり怖い構造なのです。
息子の泰時に関してもそうで、義時にとって泰時は、大事に大事に過剰なくらいに守ってやりたい存在です。義時のメンタルがだいぶ歪なのは、泰時が楯突いてくれることが嬉しい、ということ。だから、義時と接する泰時はだいたい父に楯突いてる。そして息子の未熟な部分を守ることに自分の(父としての)存在意義を見出しているから、彼の成長しきれないところしか見えていない。
ところが実は泰時、公暁と三浦の企みを敏感に察し、三浦に釘を刺し兵を増員しようとしたり、実朝に懐刀をもたせたりと、義時から離れるととても有能な動きをする。和田合戦のときにおいても兵を率いる統率力、活路を見出す機転や兵法が身についていることが示されているし、義時の勘気を受けた異母弟を自分の戦功を譲ることで掬い上げる才覚もある。そういった息子の成長を誰よりも見えていない(自分が支えてやらないといけないと信じ込んでいる)のが義時なので、「義時視点」で話が進むうちは、泰時の成長が実にもどかしく視聴者には映るわけです。

最終回、義時は泰時から「父上は口出し無用!」と一蹴され、「あれ……?」という顔で首をかしげます。
ここで義時は、今まで見えていなかった(見ようとしなかった)息子の『今の姿』、彼がちゃんと積み重ねてきた成長にようやく気付いた(追いついた)のです。だから(尺の問題はあれ)これ以降、義時と泰時が対立するシーンはなく、泰時は一気に父離れと独り立ちをし、比例して義時は急速に老いてゆくのです。この老いは、泰時にとって義時の手助けはもう不要であることを義時が自覚し、義時のなかで自分の生きる意味=泰時の父であることが失われていったことを表してもいるのです。
何か目に見えて役に立っていなければ相手を愛している自覚が持てない義時の性格は、八重へのお土産攻撃、きのこへの盲信というかたちでずっと描かれてきました。
数々の粛清も、目に見えた成果がないと「鎌倉の維持のため」に自分が役立っていると思えない、潜在的な渇望がある気がします。だから「泰時を導いてやれる父」であるためには、泰時が手のかかる息子でないといけなかった。

このロジックに立って考えれば、泰時役の坂口健太郎さんが「義時の息子であることを大事に」演じてきた意味がわかります。と同時に坂口さんが、義時の前での「幼さ」と義時のいないところで垣間見せる泰時本来の成長を、実に巧みに演じ分けていたことにも気づきます。
義時視点の「まだまだ手のかかる(と思っている)」泰時は、物語が進むにつれ本来の泰時へと行きつ戻りつ近づいてゆく。仲章を警戒し、三浦の動きに釘を刺し、父の心の揺れに気づき、上皇の意図に思い至る──そして義時は夢から醒めるようにハッとする。「そんなことをしなくても、太郎はちゃんとやるわ」という言葉は、政子には以前から泰時の成長がちゃんと見えているけれど、義時にだけは、八重を失い「この子をちゃんと育てる」と誓ったときから泰時が金剛のままだったことを示している。

もしかしたらそれこそが、『鎌倉殿の13人』で描かれた義時の「老い」だったのかもしれないと思います。そのための「義時視点」のロジック。実朝の描写が唐突なのも、泰時が幼いのも、政子がいつも「お姉ちゃん」なのも、時房が義時にとって都合が良い弟なのも。妻の実家が眼中にないのも、泰時や朝時以外の子どもたちが出てこないのも、孫が出てこないのも。どんどん世界が狭くなっていく、でもそれを自覚できていない義時の「老い」であるならば、胸が苦しくなるほど切ない。
周囲が見えていないから、のえさんの怒りも義時には全部唐突。あなたは私のことなんか何も見ていない、は、40話以降の義時を端的に表す言葉でもあったのです。なんせ義時は、「最愛の息子」の実像ですら見誤っている。
怖い……!
いや、私が思ってるだけかもしれないけど、でも怖い!
岡田斗司夫さんは「主観で物語を描くのは難しい」と言っておられました。『ハウル』がまさにそれでした。で、『鎌倉殿』の40話以降もこれならば、毎回どういうことなんだろう?と咀嚼を試みた(特に父と子の関係について)理由がわかった気がしたのです。

さて、冒頭の『ハウルの動く城』について、岡田斗司夫さんは映画では語られなかった綿密なプロットを説明してくれています。おかげで釈然としなかった部分がだいぶクリアになった気がします。
そう、説明さえしてくれればクリアになったことが、ほぼソフィ視点で描かれていることから「なんだかわからない」感が残る。
なるほど。
でも、「なんだかわからない」からといって面白くないわけではありません。それは『鎌倉殿』も同じ。むしろ、「これはどういうことなんだろう?」と画面に見入りセリフに耳をすませた気がする。
誤解のないように言えば、『ハウル』自体は好きです。私はわりと「なんだかよくわからない」ことも好きですし、基礎知識がないときにどう見える、どう感じるかは、それこそ知る前にしか味わえないこと。特にこうやってあとから謎解きに出会えるのも楽しいです。ソフィまで魔女とか考えたことなかった。そうなのか。
『鎌倉殿』に関しては明確な謎解きはないでしょうから、40話以降から義時視点に以降したこと、周囲の人物造形も義時視点に以降したことは推測にすぎません。
でもそうやってまた見返すと、きっと義時にまたむねがぎゅーっとなる気がします(非道な判断も含めて)。


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