対話──『鎌倉殿』38話

義時がやっと、父の懐に飛び込んだ。それが、今生の別れというときにいたってようやく、というのが切ない。
頼朝のそばで政に関わるようになってから、義時は時政に、「時政の子」として心を開いたことがなかったような気がする。それもこれも、人の心に深く立ち入ることをしない=自分をさらけ出すことをしないという、義時の性質が起因しているように思う。それを前回は「他者に対して淡白」と書いたけれども、多分、さらけ出すことによってそれまでの関係が壊れてしまうことを彼は恐れているのだと思う。基本、人間関係に臆病な、不器用な人なのだ。
政子も実衣も、義時よりもっと楽観的とはいえ「触らぬ神に祟りなし」的な傾向がある。鎌倉にいる4人の兄弟姉妹のうち、時房だけは物心ついたときにはりくがいた。しかし上の3人は、りくが嫁いできたときから知っていて、彼女の遠慮のない性格を良く知っている。「あんまり深く立ち入らないでおきましょう」という兄弟姉妹たちの暗黙の了解、表面的な付き合いに終始したことが、りくに孤立感を与えてしまったことも否定できない。
そして義時は、時政ともそうであったように、息子とも基本、対話をしない。言葉はいつも一方通行で、「何を怒っているんだ」「これで良かったのだ」などなど、息子の言葉を掘り下げることなく話を終わらせてきた。
いつか義時自身が泰時から「父上ともっとこうして話したかった」と涙を流されたら、どんな気持ちになるだろう。そうなる前に泰時と話すんだ! 対話しろ! 怖がってる場合じゃない! などと、時政との最後の会話に思ってしまった。

泰時は、頑固で不器用な性格である。なんなら父より不器用かもしれないが、彼が義時と違うとすれば、真正面から相手の懐に飛び込んでいけることだろう。頼家との付き合い方もそうだし、初に義時のことを愚痴るのも彼が自分を偽るタイプではないから。自分に格好をつけていたら、あんなに素直には愚痴れない。
八田知家は、「お前の父はこれまで多くの粛清を行ってきた。自分の父(時政)だけ助けるとなれば御家人たちが黙っていない」と泰時を諭す。しかし泰時はそれでも、生かせる道があるなら生かすことを考える。父に背を向け単身で時政の屋敷に入ろうとするところは、やはり父に背を向けて頼家のいる修善寺に向かったときと似ている。
義時は泰時が修善寺へ向かったとき、息子のこの性質がけして変わるものではないことを理解してまったのかもしれない。義時自身は生きるため、北条の家のため、変わること=自分を守るために相手を殺すことを選んだ。しかし他者のために怒ることができる頑固な息子は、己を変えるくらいなら共に滅ぶことを選ぶ(だから善児に「泰時は殺すな」と言い添えなければならなかった)。泰時のそういった性質は、鶴丸をかばって盛長の息子と喧嘩したころから変えがたい、彼の本質なのだ。だから頼家の一件以降、義時は息子を政から遠ざけてきた。鎌倉の政が粛清と切り離すことができない以上そこに触れさせないため、重忠の件も、時政の件も当初は、蚊帳の外に置いた。そのぶん、泰時は父との距離があいてしまった。
初は泰時に「(義時は)自分のようになるなと言いたかったの」と伝える。しかし父との距離があいてしまった泰時には、「自分のようになるな」と言われても、あまりピンとこないのではないかと思う(突然の配置換えも「遠ざけておいてなんで急に?」という気持ちだったかもしれない)。

そもそも、「自分のようにはなるな」とはどういうことか。己が生き残るためには、罪のないものに罪をおしつけ誅殺するようなことか。それとも、目的のためなら父をも手に掛けることか。
「助けられる命は助けたい」と訴えてきた息子を「甘い」と斬り捨て、「粛清を重ねなければ鎌倉を治めることはできない」と息子に示し続けてきたのは義時自身である。
ゆえに泰時は義時から「父の覚悟を知ってもらいたい」と言われたたとき、「鎌倉とはこうして治めるのだという覚悟」だと受け取ったはずだ。それは鎌倉の施政者として避けられないステップのことを指しているのであって、「自分のようにはなるな」という、父子の個人的な情に置き換えて解釈しろというのにはいささか無理がある。なぜなら現実、鎌倉を治めるためには義時のやり方しかなく、それを一度じっくり見ろと泰時が解釈するのは自然なことだし、その内情を目にしたときに「(やはり)あれでは父を敬えない」となるのも自然の感情である。
おそらく初は、家のなかの義時しか知らない。だから時政とりくに刺客が放たれるかも、という泰時の危惧には「考えすぎ」としかならない(刺客を送る用意がある、という意味でも泰時の危惧のほうが正しい)。一方の泰時は施政者としての父とその非情な判断を幾度も見ているので、初とは微妙に、義時という人物を評するときの視点が異なる。そうすると「自分のようにはなるな」という初の解釈は、一見、的外れに見えなくもない。


三谷幸喜さんは、義時は巻き込まれ型だけれども「歴史のどこかでイニシアチブをとらなければいけなくなるときがくる」「そのきっかけは息子の誕生が大きかった気がする」とインタビューで話している。
義時は泰時が生まれたとき、「金剛が大きくなるころには安寧な世になっているだろうか」と零し、それに対して八重は「小四郎どのにかかっています」と答えている。泰時は長じたけれども、残念ながら義時はそれを達することはできていない。
私はずっと、義時が涙を、苦しみを飲み、親しい人々さえも排除しながら目指す鎌倉がなんなのか、よくわからなかった。上へあがればあがるほど、頼朝よりも冷徹に、粛清の速度を早めてゆく。「出る杭は打つ」ことの繰り返しに、どんな先があると思っているのだろう。
そんな義時の思いが初の解釈のとおり、「お前は俺のようにはなるな」であるならば、裏返せば「お前がお前のままでいることを妨げるものは父がすべて排除する」という意味になる。なんなら日の本すべてを焦土にしても構わない、父がすべてをまっさらに整えるからお前は黙って見ていろ、と。
義時が権力をふるう根幹にどこか広い視野を感じないのは、義時の行動原理がいまや、泰時(つまり家族)のためというミニマムな1点にしかないからではなかろうか。だから「執政者としての覚悟」ではなく「“父”の覚悟」と言い、「俺のようになるな」という個人的な思いを秘める。だとすれば、息子への「愛」が狂気的レベルに達してしまっていて、もう震えあがるほかない。

初が義時の狂気まで見抜いていたとは思わない。
ただ、泰時の気質があの時代には生きづらいものであることはわかっていて、義時がそんな息子のゆくすえを気遣っていることもなんとなし察しているのだと思う。
その泰時は基本、他者に関しては察しが良いけれども、他者の感情が自分に向くことに関しては鈍感なところがある。たとえば泰時が近習から外されたと知った途端見るからに落胆するほど実朝に心許されていたことなど思いもつかないだろうし、「頼」の名を奪い遠ざけられた頼家のことも、そんな仕打ちなどなかったかのごとく最後まで気遣うことができる。だから、父のメガトン級に重たい感情のベクトルが実は自分に向いているなど考察の選択肢にも入らない。観察眼に優れた彼が父の行動原理を理解できないとすれば、そういうことなのではないかと思う。
義時がきちんと息子と向き合って、「自分が目指す鎌倉」のビジョンを示し、「一緒に闘ってくれないか」と言うことができれば、泰時は考えると思う。その手段が一致しなくてもゴールさえ共有できていれば父と子は共闘できるし、なんなら、「いやうちの家族のためにそういうことをするのはどうなんですか」と冷静に突っ込んでくれそうな気がする。
しかし義時は、時政にすら、最後の最後にならないと自分の思いをぶつけることができない性分(ほんともっと早くその気持ちをぶつけていれば……)。コミュニケーション下手で、八重がいなくなってからは「辛い」と打ち明けられる相手もいない。自分の手が粛清した御家人たちの血で真っ赤っかなのをわかっているから、ますます息子を寄せ付けたくない。
一方の泰時は、義時がいくらはねのけても諦めるということをしない。何度でも真正面から「違う」と言い続ける、鎌倉では稀有な存在。義時からすれば、息子を守るためには「もういいからこっち来んな! 離れたところから見とけ!」になるし、父にもっと懐を見せてほしい泰時からすれば「父はわかっとらん!」になる。
なかなかにリアルな父と子の関係。お互いを思っているのに、すれ違いが凄まじい。
今のところ泰時は、妻からも、周囲からも、「義時のことわかってやりなさい」と妥協を求められるばかりである。でも彼がもしそれを飲んで、父のやり方や、「(本当に撥ねるわけではないが)何かあったら首撥ねちまえ」な八田方式の価値観を踏襲することをやむなしとしてしまえば、御成敗式目の策定も、評定衆という合議制を運用することもできなかっただろう。
とはいえこのころの鎌倉にそんな未来が見えているはずもなく、粛清こそが秩序、という時代である。そうしなければ生きていけないことが骨の髄まで沁みている一方、息子にはそのままでいてほしい(それがかつての自分でもあるから)と願う父としての葛藤は、政治のトップについた義時にはますます苦しくのしかかる。


「坂東武者の世を作り、北条がてっぺんに立つ」が兄・宗時の残した呪縛なら、「金剛のための安寧の世はあなたにかかっている」は八重が残した呪縛。そして今回、「北条と鎌倉を託す」という父からの呪縛が加わった。義時はもう、迷うことはないのだと思う。
しかし私はどうしても、赤ちゃんの金剛を抱きしめながら「父を許してくれ」と涙をこぼした義時が忘れられない。
泰時が父のやることを理解していないとは思わない。理解をすることと、それが正しいと受け入れることは別問題である。ただ、「太郎、もうちょい父に寄り添ってあげてくれ」と視聴者の私まで思ってしまう。なんだろう、登場人物どころか視聴者にまでこう思われる泰時。彼に向く「愛」の重さたるや。
ごめんな泰時、いまや義時の救いはあなたにかかっている。義時がむっつりなせいにしていいから、頑張れ泰時、あなたが頑張るしかこの物語に救いはない(鬼)。そしてできれば、義時と対話してあげてほしい。





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