時房と泰時──『鎌倉殿』40話

トキューサこと時房は、ちょっとずるい男である。
今回の話を見てそんなことを思った。
「和田どのを嫌いな人間なんかいませんよ」
もっとも効果的なタイミングで義時に言う。が、それは事態がおおむね収束した(と思われている)タイミングである。頼家のときにせよ、今回の和田にせよ、時政の件にせよ、義時のくだした処罰に反対するわけでもないのに、ふと「私は両方に寄り添ってますよ、本当はね」感を出してくる。
ちょっとずるい(笑)

もともと、ちょっとわかりづらい人物ではある。愛嬌はあるし、人当たりも良い。北条兄弟姉妹からは、マスコットのようにいじられたり可愛がられたりしている癒しキャラ。一方、まつりごとに関してはかなり割り切りが早く、苦悩は一瞬で飲み込む。
突然、「兄上にとって私はなんなんでしょうね」と聞いてみたり、頼家のことに実は心を痛めていたことをポロっと吐露したり、粛々と義時の手足として働いているようで、胸のうちには複雑なものを抱えているのがうかがえることもある。が、表立ってそれを声高に主張することもない。
いろんな人の心情に聡いけれども、彼の場合は、聡いところにとどまる。義時の粛清相手を助けようともしないし、義時の代わりに辛い決断をしようとも思わない。戦を回避するためにはどうしたらいいか、手を尽くすわけでもない。「みんな仲良くしましょうよ」と間を取り持ちこそすれ──施政者の決断の痛みには踏み込もうとしない。
でも、だからこそ見えてくるものもあるのだろう。


その時房にとって甥にあたる泰時は、時房とは真逆のタイプ。ふんわりした見た目に反し頑固一徹なところがあって、父のやり方を側で見ながらその手法を鵜呑みにすることなくあり続け、いよいよ彼のなかで、「敵を作ることなく安寧の世を築く」というビジョンが形成され始めている。同時に「(そんな世を)作ってみせる」とも口にし、施政者への階段にも自らの意思によって踏み出そうとしている。それは、時房にはない変革の力である。
この両者の違いは、私は彼らの家族構成にあると思っている。
泰時は10歳のころまで父ひとり子ひとりで、しかも父が不在になれば判断を求められる長男として育った。異母弟は幼く、お伺いをたてられる兄も彼にはいない。鶴丸や比奈の助言があったとしても、決めるのも責任を負うのも泰時である。ときには、相手にとって耳が痛いことも言わねばならない。
一方の時房は、大きな判断は兄(+姉)がしてきた。基本、その指示に従っていればよく、時房自身に主体的な判断が求められる順番は低い。家族が穏やかに上手くいっていればいいという平和主義でもあるから、波風が立つようなことも言いたくない。場を丸く収める振る舞いや話術が自ずと身につく。そういった柔らかさは、ときに刃のような正義感で融通がきかない泰時にとっても(義時にとっても)、得難いものだったのではないかと思う。

後年、泰時が執権という権力のトップに就きながらも時房をけして疎かにしなかった──むしろ自分よりたてようとした──のは、8歳年上の叔父というだけではなく、時房の、角を立てない潤滑油のようなバランス感覚がまつりごとには必要だとわかっていたからではないだろうか。
泰時には、自分に足りないものを見極め「欠けている自分」を受け入れる器があるのだろうと思う。和歌に苦戦することも、妻にたしなめられることも、「ダメな自分」を泰時は繕わない。そういう裏表も保身もない性格だから、その心はまっすぐ相手に届き、深い信頼を寄せられる。
同時に、ダメな自分を隠そうとしないところは隙を晒すことでもある。時房はそこに気を配ったのではないかと思う。時代を牽引するのは泰時に任せ、ときに気づきを与えながら、下から支える。それは、癖の強い北条一家で育ち、義時のやり方や泰時の反発をもっとも近くで見ていた時房にしかできない仕事だっただろうと思う。


時房は承久の乱の19年後、1240年に死去し、その2年後に泰時もこの世を去った。
このふたりが世を去ってからわずか数年後、北条家内の家督問題や御家人たちの不満がとたんにあらわになる。泰時の子どもたちが早世し後継をしっかり据えられなかったことが遠因にせよ、義時のあとを継いだときには政治的基盤が弱かったと伝わる泰時が、後ろ盾の政子や広元亡きあとも朝廷や西国の御家人たちにも目配りをしつつその治世に騒乱を起こさなかったことは、まぎれもなく泰時と、それを支えた時房の手腕であったのだろう。
そしてその下地には、父がいて母がいて、鎌倉で彼らが見て経験したものがある。
そう思わせてくれる『鎌倉殿』である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?