家康、学ぶのは「今」じゃないのか。

『鎌倉殿の13人』の時代考証を務めた木下竜馬さんは、公式サイト(この2月7日に閉鎖)で「当時の人間の感情を復元するのは難しい」と仰っていた。とても興味深いお話だったので、勝手ながら書き起こして手元に残しておいてあります。
それが以下。

──歴史学って吾妻鑑とか古文書みたいなのがあって、そこからものごとを復元していくんですけど、人間の内面とか人柄ってかなり難しいんですよ、どうしても復元しきれないんだろうみたいなところがあるわけです。いわんや、このときこの人どう思ってたんだろうってすごく難しいんですよね。(中略)ドラマって感情の流れを書かなきゃいけないから、まずそこを復元しないといけない。そこがやっぱり、ぜんぜん違うなあというふうに思いましたね。
面白いなあと思ったのが、石橋山の戦いのあと「頼朝生きてます」みたいなシーンがあったと思うんですね。あれ吾妻鑑だと、政子がそれを知って悲喜こもごもでありました、みたいなことが書いてあるわけです。わりあい流して読んでたんですけれども、たぶん三谷さん、「嬉しいのはいいんだけど悲しいのはなんなんだろう」ってこだわられたんだろうなと思ってて、オンエアだと、頼朝が生きてるって聞いた政子がすごい怒り出して「出家の予定だったのにこれじゃ台無しだわ」って泣いちゃう。ドラマを作る人が、吾妻鑑のこういうふうなところに着目するんだって新鮮でしたね。
歴史屋ってけっこう、歴史資料に関しては一番理解してるんだみたいな顔をすることがあるんですけど、実際、歴史資料の前には、みんなイーブン、アプローチの仕方がいろんな、取り出せるものがあるんだろうなっていうふうには思っております。(木下竜馬氏:鎌倉殿の13人公式サイトより)

『鎌倉殿』の北条義時こと小四郎は、内向的で揉めごとも面倒ごとも嫌いなタイプながら、頭が良くなにごとにもそつなく対処できる能力の高さから、周囲から面倒ごとを押しつけられがち。人がいいので断ることもできず、望まぬ役割をこなしてゆくうちに心が捻れ歪んでゆく。物語の終盤ともなると、本人も自分が歪んでいることを自覚していて、鎌倉のため息子のためと理由を求めてなんとか自我を保っている。
闇落ちだと言われた小四郎だけど、1話から見返してもその本質は何も変わっていない。周囲から理解されないことが、彼をどんどん孤独にしてしまった。でも実は理解をされていなかったわけではない。政子も泰時も、弟や父の判断が「仕方のないこと」と理解はしている。でもそれが本当にいいのか?と問うことは、理解とは別の問題なのだ。
義時は頭が良いから結論が誰よりも見えてしまう。加えて面倒ごとが嫌い(面倒臭い)だから、最適解と思われる結論へ一直線に進んで白黒つけないと安心できない。
一方の泰時は、坂口さんがインタビューで答えるようにグレーゾーンを知り、回り道ができる人。「それで本当にいいのか?」「別の道があるんじゃないのか?」そう問い続けられるからこそ、息子の泰時は義時の、また物語の希望たりえた。
そう。『鎌倉殿』はそこに生じる感情と、感情と感情のぶつかりを描いた作品でもあったのだ。

史実をドラマにするときに、やはりこの「そこにどういった感情があったか」こそが物語の核であろう、と私などは思う。
ここに、脚本家含め製作陣の手腕が問われる、とも。
そこにドラマとしての説得力があれば、多少の「史実と違うね」なことはどうでもよくなるものだろうとも思う。


『どうする家康』に話を戻す。
この話の家康は、前回も書いたとおり事なかれ主義のおぼっちゃんである。今川義元という強大な庇護のもと、責任など関係なくのんびりと暮らしていられればそれで幸せというタイプ。その彼が、義元の死によって三河の領主という立場に置かれることになり、何事も自分で責任をとって判断しなければならなくなる。
三河一向一揆は1563〜64年に起きたとされる。桶狭間が1560年だから、家康が岡崎に落ち着いて数年は経っている。さて、その間彼は領地経営についてどれだけ考えただろうか。

一向宗がカルト化することと、そのカルトに傾倒してゆく領民が多くいることはわけて考えねばならない。民がなぜ宗教に踊らされてゆくのか。この話の場合、根元はすべて「生活の困窮」にある。元康が考えなければならないのは、ここのはずだ。
一向宗はヤバイ組織だが、民衆をそこに走らせているのは領地経営の失敗である。この話の家康は、なぜ、そこに心を寄せることをしないのだろう。「今は戦備えをしなければならない。民衆には耐えてもらわないとならない」という苦渋の決断が、この話の家康からは一切見えてこない。「あの宗教やばいんで優遇措置撤廃! からの強制執行!」ってあまりにも軽くないか。いくらぼんぼんでもひどすぎないか。なぜ家臣は何も言わないのか? なぜ、この話はそこに生じたであろう苦悩や喧々諤々をこそ描かないのか。感情を描いてこそのドラマ、何より「どうする」の肝はそこであろうに。

『鎌倉殿』の義時もまた、望まざる地位についた人物として描かれた。そうであったがゆえに生じた彼の苦悩もこれでもかと描かれた。視聴する側の心までも悲鳴をあげそうな連続だった。
しかし『どうする』の家康の苦悩は描かれない。「三河をひとつの家に」という言葉も、民衆の苦悩そっちのけで「税の強制徴収」へと安直に踏み切ったことで中身のない単なる思いつきだったことを露呈させた。「そんな強引な取り立てをしては反感を買い、領内をより不安定にさせる」と進言する家臣はひとりでもいないのか。この物語の大人たちがすることといえば、瀬名にせっせと貢物をすること。どうなっているんですか三河よ……。
一向宗はカルトではあるが、空誓上人の言い分にも理はある。領主たるときの心構えについてヒントとなるような言葉もあった。そこに気づけないのは家康の若さかもしれない。だとすればこの物語に必要なのは、家康の若さを諌め、導き、その決断には捻れるような心の痛みを伴うのだと示してくれる大人であろう。そこを忠次や数正が担わなくてどうする。

義時は泰時の理想を「甘い」とはねのけた。
泰時は諦めることなく「間違っている」と父に問い続けた。
どんなに心に傷を負っても、この父と子は「鎌倉とは何か」を問い続けた。
組織を背負う痛み、決断にともなう痛み。その痛みと問いを重ねた先に「殺し合わなくても良い世を目指す」泰時は物語の光となって立ち上がった。
家康が「三河とは何か」という問いに、そこに生じる痛みに、踏み込む日はくるのだろうか。いやいや、岡崎に何年もいて、そのあいだ裁決を求められる立場として過ごしてきただろうに、ぼんやりしすぎちゃう? 今こそ、領主としての痛みに向き合う大事なとこじゃない? 今じゃない? 今じゃないのか……。
口で「怖い」言ってるわりには信長を心底怖がっているふうでもないし、あれだけ義元公を慕っておきながら「元」の字をあっさり捨てたりと、言ってることと感情がちぐはぐな家康さま。なんだか、適当にやっているうちによくわからんけど安寧の世が来た、になりそうな気がして怖い。そのときにしみじみと穏やかな江戸の街を眺められようものなら「いや領民のことなんてこれっぽっちも気にしてなかったやん…(まあ家臣も特に気にしてなかったけど……)」とテレビの前で突っ込みそうで怖い。
ちなみにそういう意味では、1話でひとさまの頭に槍ぶっさしてぶん投げた信長さま、これからどんなに良い人ムーブが来ても(来るのかわからんけど)、「いや仮にも大国の主人の首を槍にぶっさして投げた上に野ざらし放置しとったやん……突然、良識ある人ぶられても」にしかならないと思う。

ううむ、どうする私。
(見るのをやめれば良いという意見もあるでしょうが、見続けなければわからないこともあると思うので、もうちょい見てみます)

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