TOKYOMER最終話──喜多見先生と音羽先生、ふたりの医師のこと。

喜多見という医師は、「目の前の命を救う」ことへの衝動を抑えられない医師だと書いた。ある意味それは、人としてのネジがどこかへ飛んでいる、とも言える。普通の人なら怯むようなところへも平気で飛び込んでいけるし、患者を救うためならば「あなたは医者ですから」と赤の他人にあるべき姿を強要したりもする、ある意味、怖い一面を持った人だ。

最終話、喜多見先生は「俺たちのやってきたことは」と言った。「俺の」ではなく「俺たちの」と。喜多見先生は、あくまで「自分の信念」をMERに持ち込み、一方的に伝えてきた。MERの活動理念についてMERのメンバーからフィードバックされたことはほとんどないと思う。そういう意味では、「俺たちの」という言葉のチョイスは私には違和感があったし、そもそも椿を助けたことにMERのメンバーは一切関わりがないので、あそこでは「俺の」というほうがしっくりくる。それでも「俺たちの」と喜多見先生は口にした。過去を打ち明けたこと、そのうえで自分を受け入れてくれたこと。「自分もチームの一員だ」というのも、喜多見先生の本心だろう。

しかし、紛争地域での医療経験がベースにある喜多見先生と、日本の医療現場しか知らないメンバーとの間にはやはり、認識の齟齬が生じる。そのズレは、喜多見先生の周りにいる誰も理解することはできないし、埋めることはできない。なにより「俺たちの」と言いながら、喜多見先生が皆の存在と成長に気づくのは、最終話なかばである。それは、音羽先生には6話時点で見えていた世界だけれども、「今度は自分たちがチーフを支えるのだ」という仲間たちの内面にある強さや優しさに、喜多見先生は最終話にしてようやく気づくのだ。

正直に言うと、仲間に背を押され家を出たはずの喜多見先生が、ガスで意識朦朧としている音羽先生に対して、なぜあそこまで喧嘩腰なのかがわからない。喜多見先生が不在の間、メンバーに指示を飛ばし、大量の傷病者をさばき続けた音羽先生に向かっての「俺はチーフドクターですから」は、さすがに「いやあなたここまでおらんかったやん」と突っ込みたくなるし、「まだやれますかっ?」ってあんな喧嘩腰で言われたら、私なら「だったらもっと早く来い!」って言い返す。「そっちこそ大丈夫なんですか」と問う音羽先生は優しい。おそらくこのふたり、友人としてはまったく気が合わないんじゃないかと思う。でも結局息は合うし、なんなら目と目だけで通じ合える。バディというよりは、もう腐れ縁。喜多見先生が千住隊長と熱い再会をしているうしろで、医療道具をせっせとバッグパックに片付けている音羽先生が愛おしい。

このときの喜多見先生には、自分を「医師」として奮い立たせるものが必要だったのだろう。そのためには目の前の人を救わなければならないし、それには音羽先生にもやってもらわないと困る。「だってあんたも医者だろう」と。そういう人だからこそ持ち得る強烈なカリスマ性なのだろう。そして、そのカリスマ性は、喜多見先生本人の意志に関係なく、ときに椿のようなものも引き寄せる。喜多見先生のカリスマ性は、表裏一体なのだ。

肝心の喜多見先生自身は、椿という人間の人生に何があったか、何をもってテロリストになり、ああやって語るような思想を身につけたのか、そういうことには関心が湧かない性分なんじゃなかろうか、と思う。「医療」という媒介がなければ、他者への共感性が極端に薄いのだ(そうでなければ国際的なテロリストがあんなさっぱりとした描かれ方はしないだろうし、喜多見先生が口にする椿のエピソードも、あんなに薄くはならないと思う)。そういうところが椿をイラつかせていそうではあるし、高輪先生と上手くいかなかった原因のようにも思えるし、仲間たちの存在の大きさに気づけなかった理由にも思える。一方で共感性に乏しいからこそ、現場では容赦なく人を動かすことができる(他者の事情にいちいち共感するような性分なら、消防や警察の事情お構いなしに突っ込んではいけない)。

喜多見先生には「目の前の命を救う」こと(=今)がすべてであり、だからこそ、テロ被害者の遺族から「医師」へと瞬時にスイッチを切り替えることができる。そして「俺たちはMERじゃなくなる」と自分と同じ価値観を周囲に求め、何があろうと「目の前の命を救う」のだという衝動に、否応なく皆を巻き込んでいく、「俺たち」という呪縛で。この「ずるさ」は喜多見先生の持つカリスマ性ゆえに成立し、この話の揺るがぬ基軸へと昇華していく。

「涼香を思い出しそうで怖い」と泣いた喜多見先生は、現場に出てしまえば迷うことも躊躇することもなかった。その医師としての強靭な信念は、ある意味「狂気」に近い。でも突き抜けた能力を持ち、他者を強力に牽引していく人というのは、どこか狂気を孕んでいるものだ、とも思う。大らかな人柄のうしろからその狂気が垣間見えたとき、観ている私は喜多見という人物を一瞬「怖い」と思うのだが、(鈴木亮平さんがどこまで意図して演じたかはわからないけれども)この狂気があるからこそ、喜多見幸太という医師はこの物語のなかでカタルシスを担うことができるのだろう。

これまでオペ室では淡々と喜多見先生をサポートし続けてきた音羽先生が、椿のオペばかりは耐えきれず、ボロボロと泣き、嗚咽を漏らす。このとき音羽先生に向けた喜多見先生の寂しげで穏やかな笑顔は、音羽先生が「人」でいてくれることへの安堵に思える。音羽先生にある「人としての葛藤」と「医師としての葛藤」は、「医師でしかいられない」喜多見先生がとっくにどこかへ捨ててきたか、あるいは最初から喜多見先生のなかには存在しえない柔らかな共感性であり、喜多見先生の表情は、「あなたはそのままでいてください」と言っているようにも思える。ちょっぴり、自分自身への諦念も滲ませながら。

何より音羽先生にこういう感性があるからこそ、喜多見先生は自分の背中を預けてきたし、妹を託せると思ったのだろう。「目の前の命の価値を決めるのは医師ではない」という信念と「医師もまたむき出しの心を持った生身の人間である」という対比を、この作品は喜多見ひとりの内面に背負わせるのではなく、ふたりの医師に預けた。ふたりの関係性は10話をかけじっくりと積み重ねられ、その対比は最後、椿を挟んでのやりとりへと帰着する。鈴木亮平さんと賀来賢人さんは言わずもがな、ふたりを囲む5人が作り出すチームの空気も含め、10話をかけ丁寧にキャラクターの関係を積み重ねてきたからこそできた帰着だろうし、そこに、製作陣の誠実さを確かに感じる。涼香の死が残念だったという気持ちは拭えないけれども、このシーンは本当に秀逸なシーンになった。

人間味があるようでいて実は他者への共感性に乏しい喜多見先生と、ツンツンと悪ぶっているようでいて実は人情あつい音羽先生という、凸凹とも形容しがたいふたりの男は、MERという新しい医療の現場で、もう少し共闘することになる。大きな喪失からの救いは提示されることはなかったけれども(しようもなかったと思うけれども)、MERという組織に、組織の存続以上の未来を感じさせるラストになったことは良かったと思っている。

ドラマとしては、キャスト、スタッフの熱量と結集力が強く感じられ、ツッコミどころありの予定調和なストーリー展開も含めてとても楽しめた。そういった“王道”に深みをもたらし、厚みを与えたのは、喜多見と音羽というキャラクターのぶつかり合いと共鳴であり、一筋縄ではいかないこのふたりを見事に演じきった鈴木亮平さんと賀来賢人さんに、特に賛辞を送りたい、と思う。


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