史実と創作のはざま。

『どうする家康』への意見をネット上で覗き見ると、「史実と違う」という意見が散見され、それに対して「大河なんて史実と違うことはいくらでもある」という反論を目にする。
たとえば去年の鎌倉殿でも、頼家の散り際も重忠と義時の乱闘も史実にはないことだし、泰時と三浦義村の娘がずっと夫婦関係でいるのも史実にはない。なんなら義時には側室がいたけども、『鎌倉殿』の義時は八重さん一筋の純愛系だし人生後半においては恋愛めんどくさい子どもたくさんいてもめんどくさい、というタイプでどんどん人間関係が(視野も)狭くなっていくよう描かれている。
ただしこのへんの人間模様なんて、史料にあったとしてもそれが事実とは限らない。誰と誰は仲がいいとか嫌いあってるとか、伝聞、編纂、創作──誰かの意図が必ず介在しており、正確に現代に伝わっていることなんて、ほぼほぼないだろう。
だからちまたで言われる「史実と違う」という意見は、こういった人間模様を指しているのではないと私は思う。

たぶん『家康』での「史実と違う」という意見は、初回だったかに描かれた火縄銃の扱いが発端だったのではなかろうか。画面のトーンが暗いので判然とはしないのだけど、この火縄銃が「連射しているように見える」ということから、「あんな連射できるわけないだろう」というツッコミが入ったのだ。
ここでまた『鎌倉殿』と例えると(別にほかの作品でもいいのだけど)、たとえば鎌倉時代に火縄銃があったら「おかしいだろ」とツッコミが入るし、あの時代になかった食べ物、着物、たとえば烏帽子を被っていないとか、そういう表現があったらたぶんツッコミの嵐だったろうと思う。『鎌倉殿』の場合、そういった人物が生きる時代背景の習俗、道具、風景などをはずさないからこそ、人物そのものの描写が史実(史料)から改変されようとも「ドラマだからね」と容認され、またその人間模様に入り込むことができた。
しかし『家康』は、「火縄銃で連射している(ように見えてしまう)」と、ともすれば「実際にはありえないだろう」という描写を盛り込んだ。清須城のあの広大な石畳も、清須を見下ろす山もそうだろう。いかな信長とはいえ、敵武将の首をあんな無礼千万な扱いをするだろうか? 濃尾平野のど真ん中にあんな山が? 尾張の地勢はどうなってんの?
そういった「明らかにあの時代の作法としてはおかしい」「あの時代の地勢としてはおかしい」と思われる描写を一度でも盛り込んでしまうと、視聴者はそれ以降の描写を疑ってかかるようになる。
たとえ「これは家康の心象風景なので誇張して描いています」と説明されても、肝心なのは「完成された画」から視聴者がどう受け取るかなので、「おかしいだろう」というツッコミが優ってしまった時点で、演出としては方向性がちょっと違っていたかもしれない、と言わざるをえない。

ジブリの宮崎駿監督が『もののけ姫』を制作したとき、主人公のアシタカが金銭の代わりとして持ち歩く「金(ゴールド)」があったのだが、監督がそれの色にとてもこだわっていたことを思い出す。
市で物を買い求めるときに「これでいいか」とアシタカが金を差し出す、ほんの一瞬のカットなのだけど、宮崎監督は「東北の金はこういう色なんだ」と色指定の方に指示を出し、その微妙な違いにこだわった。ほんの一瞬のカットに、である。
宮崎駿監督についてスタッフが、「大きな嘘はつくが小さな嘘はつかない」と語っていたことがある。アカシシ(ヤックル)という架空の動物を存在させる一方で、あの時代の時代背景については綿密に構成しベースとする。「東北産の金の色」という学術的にはっきりしている部分に嘘はつかない。その盤石なベースがあるからこそ、架空の命が生き生きと生きてゆく。


『鎌倉殿』にもし火縄銃が出てきていたら、「創作にもほどがある!」と視聴者は一気に興ざめしただろう。あの時代には「ありえない」オーパーツだからだ。「連射できる火縄銃」もオーパーツである。「連射してないよ!」というのであれば、面倒臭がらず弾こめ役をちゃんと描かないといけない(そこのとこ、『八重の桜』での鶴ヶ城籠城シーン、官軍を迎え撃つ主人公・山本八重さんの火縄銃部隊の指揮っぷりを見てほしい)。
例えば鎌倉が、海に面してもいない、山に囲まれてもいない広々とした関東平野のど真ん中と描かれていたらどうだろう。やはり「ありえない!」となるだろう。役者がどんなに奮闘したとしても「ありえない」が目につく世界の人物を、視聴者はリアリティを持って受け止めることはできない。
『鎌倉殿』に火縄銃は出てこないし、鎌倉は鎌倉の地勢で(極力)描かれている。『青天』につけ『麒麟』につけ、そこは大外しはしていないはずだ。『家康』が「史実と違う」と突っ込まれるのは、人物設定や物語の進行のさせ方といった「大きな嘘」の部分ではなく、そういった「小さな嘘をついてしまった」ことについてなのだろうと思う。そして、エンタメに特化した結果この「小さな嘘はつかない」ということの優先順位が低い──物語のスタートで視聴者にそう思わせてしまったことは、実は大きなマイナスになったのではないかと個人的には思う。この先どんなに誠実に描いたとしても、「その程度の歴史認識なんだな」という最初についてしまったイメージや色眼鏡はなかなか払拭できないものだし、そういうイメージを起点に作品を見るようになるから、肝心の人間模様にはなかなか入り込んでいけない。

史実と創作をどこでバランスをとるかは製作陣の腕の見せどころだろうし、史実と創作の織り交ぜ方の好みは、視聴者によっても違うだろうと思う。『家康』も描きたいのだろうと思われることは伝わってくる。
ただ私にとって、「これ濃尾平野じゃないだろう…」というのは視聴者として余計な情報である。そこに意識がいかないような画作りができたら、物語にもっと入り込んでいけるのではないかと思っている。


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