『虎に翼』と『光る君へ』──無自覚な傲慢さが世を切り開くのか。
(注)かなり辛口評になるので、この2作品のファンの方はここで「回れ右」です。
本題。
期せずして同時期に、私はこのふたつのドラマから離脱することを決めた。決めたというか、チャンネルを向ける気持ちがついに萎えてしまったということ。
そして期せずして、離脱の理由は似ている。
いずれも、主人公にまったく共感できないことなのだ。
『虎に翼』の寅子は世界は自分を中心に回ってるタイプの傲慢な性格で、『光る君へ』のまひろ(紫式部)は教養はあるものの知識に溺れるタイプの浅慮な人間である。
こういう人物設計はまったく構わない。要は、彼女たちが周囲の人々や環境によって何を得ていくのか、その成長と変化こそが、半年、あるいは一年という時間をかけて描く朝ドラや大河の核であろうと思う。
しかしこのふたり、ずーっと何も変わらない。なんかこう、常に「私、辛いわぁ」などんよりオーラのなかに引きこもっている。それでいて突然賢しらに、持論や思想をさも総論のように振りかざすからたちが悪い。
このふたりに共通しているのは、「私の思う社会がみなにとっても良いはず!」と思いながらもこのふたり自身の視野がまったくもって狭いことだ。
寅子は、よねの辛い生い立ち話を(慰めようとするあまり)自分の生理の話にすり替え、「みんな辛いことのひとつやふたつあるわ」的な暴論でよねにそれ以上を言わせなくしてしまう。久保田先輩の「弁護士としても、妻としても、嫁としても、満点を求められる」という苦しい吐露を「一緒に道を切り拓いてくれると思っていた仲間に裏切られた気分」という自己中心的な感情にすり替え「なんだよ」と吐き捨てる。彼女は基本、他者に寄りそうということができない。まず、「人の話をじっくり聞く」ということができないのだ。
できないことを自覚しているならともかく、「私はみんなのために!」を大義名分のように抱え、ときにそれを武器にして周囲を力任せになぎ払おうとするのが、寅子の厄介なところだ。だって彼女、本当に人の話を聞かないから。人の話を聞かない、ということは、物事の本質に目を向ける気がない、そういう資質がない、ということでもある。
仮にも法律家なのに、それでいいのかとすら思う。
見ていてとてもしんどい。
まひろはというと、直秀という諸国を渡り歩く散楽の男と知り合ったことをきっかけに庶民に興味を持ち、庶民にとっての良いまつりごとに関心が向くようになるのだが、肝心のまひろ自身に、庶民のことを真剣に知ろうという気がこれっぽっちもない。文学や学問という机上の世界しか彼女の関心はなく、庶民のなかにとびこんで(今でいうならフィールドワーク)とことん彼らの生活を学び尽くす、そのうえで善政とは何かを考える、といった行動は一切とらない。新しい学問があれば飛びつきたがるところを見るに要は新し物好き、目新しいものに目がいくだけ(そしてすぐに飽きる)、なのだが、長続きもせず深掘りもせず基本が「広く浅く」に過ぎないために、「民のためのまつりごと」と言うのも単なる思いつきの範疇を出ない。百歩譲ってそれだけならまだいい。まひろ自身に「長続きもせず深掘りもしない」という自分の気質への自覚がさっぱりないことが問題なのだ。
そもそも彼女が本当に庶民に心を寄せているなら、彼らが心血注いで仕上げた税たる紙をちょろまかそうとなどしたりしない。そういうまひろの無自覚な傲慢さも、見ていてしんどい。
私は朝ドラは昼の再放送で見ることが多く、『虎に翼』の場合、なぜか『ちゅらさん』の再放送と抱き合わせになったことで『ちゅらさん』から見ることになった(正確にはお昼のニュースからではある)。
この『ちゅらさん』の主人公のえりぃも、大概にこちらをイライラさせるタイプである(笑)ともかく人の話を聞かない。他者が「嫌だ」と言っていることを何度も無視する。まったくもってイライラする。しかし『ちゅらさん』には、彼女のそういった自己中心的で無自覚な気質を、折に触れ諭すものが現れる。母であったり、下宿先の人たちであったり。彼女が自分の根本を変えることはないけれど、えりぃは折に触れ、立ち止まって考え、自分の道を決めていく。
しかし『虎に翼』も『光る君へ』も、寅子やまひろの無自覚な傲慢さに釘を刺し、諭すような人物は現れず、登場人物はみな、首を傾げたくなるくらい彼女たちに寛容だ。そんな寛容な人たちに囲まれているにも関わらず、「私、辛いわぁ」と常にどんよりオーラに引きこもっているのが寅子とまひろである。
「男も女も関係ない」と啖呵を切った寅子は、なぜ、戦中に男だけが戦地へ連れていかれることに疑問を持たなかったのか? 同じことを学びさえすれば男と同等に働けるはずだという持論をそこで発揮せずにどうする。そしてそこで壁にあたってこそ、「真の男女同権とは何か」を彼女は真剣に考えたはずなのだ。
戦中の、言いたいことも言えない雰囲気、みなが戦争を当たり前と思っている空気、国家によって思想が左右されていくあの時代に、寅子はそういった物事になんら関心を示さなかった(描かれないというのはそういうことだ)。だから日本国憲法の発布に涙を流されても「何を突然?!」ってな感じで私にはちっともピンとこなかった。
子育ては母や義姉に頼りきりなうえに頼りきりなことに何一つ疑問を持たず、それらと仕事や勉学を両立させてきた梅子や久保田先輩の本当のきつさ、辛さにも結局思いがいくこともない。娘が熱を出してるけど仕事に行かないと。そばにいてという小さな手を振り払ってでも仕事にいかないと。ああ久保田先輩はそれすら許されなかったんだ、そういった葛藤と気づきが果たして寅子にあっただろうか。
恩師の穂高に対してもそうであろう。「あなたが私をこの世界に引きずり込んだんだ!」と穂高に罪悪感を植えつけておきながら、男手が失われた家を支えながら少しでも育児と両立できそうな仕事をと探してくれただろう穂高に、彼女はどういった態度をとったか。
男性は、妊娠も、出産も、授乳も、することはできない。不足や的外れがあろうともそこに精一杯の理解を示そうとした相手に対して、彼女は「女性であること」を武器に黙らせにかかったのだ。それは、男が「男であること」を武器に女性を抑圧してきたことと何も変わらないと、寅子はなぜ思わないのか。
しかし彼女がそこに気づくことはない。その程度の人権意識の寅子が、作中、過度に「できる女」として持ち上げられていることが、ともかくもやもやしてならない。つまるところ、「女性性をふりかざして男性性を叩く」ことにカタルシスを求めているだけで、中身も本質も何もないのだ。それがこの作品の寅子であり、彼女に理解あるものたちの姿だ。
寅子、あなたのいるところは全然地獄なんかじゃないよ。
『光る君』のまひろも(なんなら道長も)同様だ。
庶民のことを賢しらに語るくらいなら、1年くらいその綺麗な着物を脱いで庶民とともに暮らすくらいのことをしなさいと言いたい。直秀だけを見て彼女がわかった気になっているのだとしたら、彼女はちっとも「賢い女」などではない。賢い人というのは、知れば知るほど自分が何も知らないことに思い至る、そういう思慮を持つものだ。まひろは今のところ、ただ漢詩に詳しいオタク気質の引きこもりにすぎないし、そんな生活を送る彼女が(つまるところなんら実地経験を積めていない彼女が)、今後また聞きかじっただけの知識を賢しらに披露し、周囲から「なんてできた人!」と賞賛されるのかと思うと、眩暈を起こしそうである。
この程度の女性が? 千年も愛されるあの作品を?
どんなまひろだとしてもいつかは書くことが決まっている。だとしても積み重ね方がずさんだし、さすがに説得力がなさすぎだろう。
誤解のないように言えば、『虎に翼』も『光る君へ』も、作劇としてはとてもうまく作り込まれていると思う。作り込まれているから、寅子やまひろの眩暈がしそうな(無自覚の)傲慢さが、上手く中和されている部分もある(伊藤沙莉さんや吉高由里子さんの技量もあろう)。
が、「よくできている」ぶん、人物すべてはその作劇のために配置されており、主人公たちも、決められた未来に向かって粛々と言葉を重ねるだけに見えてしまう。彼女たちは必要な体験を何一つ積むことなく、言葉や思想を並べ立てるだけの女になってしまった。
少なくとも、ぼーんやりと10年以上を邸のなかで過ごしてきたまひろに「民のため」などと語ってほしくはないし、環境に恵まれていることにすら気づいていない寅子に──誰かの辛さを「私にだって辛いことがあるわ」にすり替えてしまう彼女に──、女性の辛さや男女同権を語ってほしくはない。
もしかしたら今後、彼女たちのこういった気質がしっぺ返しをくらう展開が待っているのかもしれない。だとしても、ほうら見ろ、とも私は思えないだろう。
「よく作り込まれている」と感じるということは、ドラマの世界観よりも製作陣の意図が前面に出てきつつあることを意味している。女が女として生きづらい世の中でも文学の力で、法という知識で、世を切り拓いた女たちがいる──そんな時代を変えることは自己中心的傲慢さを持った女でしかなし得なかった、と製作陣が言いたいのであれば、寅子やまひろというキャラクターそのものにこそ、私は不憫な気持ちを抱いてしまうだろうから。
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