眠れないのは、とりもどせないから

限界ちかく眠いのだけれど、眠りたくない。だれだってそんな日が1日や2日くらいざらにある。あるいは1年10年と続いていくやもしれぬ。眠りとは甘美なもの。眠れることはあたりまてだけど、幸せなことだ。
そうそう、拷問のひとつに眠らせないことっていうのもあるのです。睡眠って食とに次ぐ生命活動の基盤でもある。
眠りたいのに、眠れないのは脳が興奮状態にらあるからだ。
今の僕のようにスマホを握りしめてちゃいけない。光は、とくにブルーライトは眠りの妨害効果が抜群。
これをかくと、あれですな。
文明はいかに眠りを妨げるものなのか。

朝日とともに、活動しはじめ日が落ちる前に家路につく。あかりは提灯や行灯。
それらは、電気になれている我らがおもっている以上に、弱々しい灯だった。
部屋を画一的に照らすことは、もちろんできない。
そこを中心として薄ぼんやりと、まあるく光を投げかける。部屋の四隅にまで光の恩恵は届かないようなもの。壁に掛けられた浮世絵を薄くてらす。
浮世絵って、あれ変じゃないですか?昔の日本人の目にはああいう風に見えていたのか。んなわきゃない。なぜ、あそこまでデフォルトされた絵を好んで描いていたのか。
べったりとした色の塗り方。着物の細部は生地の感じで立体感はあるけれど、顔なんて一色のベタ塗りじゃないか。
手抜き?技法が確立されていなかった?
浮世絵は、薄暗いなかで炎が揺らめくそんな場面で見られることを前提としていた。そういうことも言われています。
のっぺりとした絵が、行灯の火で艶めかしくみえる。

筆がすべって浮世絵について語ってしまったけど、日本人はこうやって、ささやかな夜の楽しみを持っていた。
これは江戸時代の話で、天下統一して安定した時代だったから、庶民にもちょっと余裕ができた。その余裕がこういう余暇を生みだした。
そうすると、人ってものは満たされれば満たされるだけ、夜更かしになってしまうってことだ。

眠らない。
眠りたくない。
そういう心理は、その日に満足がいっていないから、その日を取り戻そうとして眠らなくなるということを聞いたことがある。ことの真偽は置いておくとてものすごく説得力がある。

作業効率は夜よりも、朝の方がよい。実験結果で証明されている。だけれども、夜は永遠につづくのではないのかと錯覚する瞬間もある。暗いと先が見えない。先が見えないと、その先もずっと続いていくのではないかと期待してしまう。

夜が永遠に続けばいいのに。
何度、そう思ったことが。
太陽など死んでしまえばいい。
何度、そう願ったことが。

それでも、時間がくれば朝の気配を引きつれてくれば空が白んでくる。
絶望的な気持ちになりながら、布団を頭までかぶっ。そういう時期を思い出している。

朝など死んでしまえ。
もしくは、眠らないでもいられる身体をください。眠ることが好きで好きでたまらないのに、惰眠をとることには一種の恐怖をかんじる。
仕事で疲弊しているとき、精神的ダメージが蓄積されているとき、もしくは何もすることがなくて達成感を味わいたくて、でも日中に味わえなかった達成感を取り戻すために極端に眠れないか、もしくは眠すぎるか、そのふたつを行ったり来たり。

眠ろうとはおもう。
明日のため、明日は未来へとつながる第一歩。計画たてて、理想の未来から逆算してスケジューに落とし込んで。さぁ、新たな1日がはじまる。
その1日も、眠れずに過ごすだろうことは頭の片隅に追いやる。

ちょっくら、手術することになりました。