【ラブライブ!】シンクロとはなにか?

またですか

ラブライブ!がまた炎上しかけているようだ。
ざっくり言えば、Liella!5thライブにおいて、某キャストが「キャラを置いといて」話したことへの賛否が分かれている。
初期のタイムラインだと「バレンタイン劇場炸裂!」「可愛すぎた!」と評判は良かったはずなのだが、どうして…?

と思っていたが、詳細を聞いてみると賛否はあろうと思う。だって、アニメ(声優)コンテンツなんだもの。どこに魅力を感じてラブライブ!を追いかけてきたか…オタクによって主義主張が異なると思う。

それよりも、本当にこの界隈空気悪いよね、と外野から見ていてそう思ってしまう。私は近寄りがたいなと思ってしまった。

不満を書きこむ否定オタクもいれば、否定オタクを叩く全肯定オタクもいて、水掛け論になってしまっている。
否定オタクはネガティブなことを扱うので言葉に気を払うべきだし、全肯定オタクは対象がコンテンツでなければこんなデッカい棍棒使うの?ってレベルで、負けず劣らず口が悪い。ライブごとに炎上している気がしており、いったいどれだけの応酬を重ねれば良いのだろうか?と思う。まことに気が滅入るのであるが…。

私は思う。この両者の対話自体はあまりない。意見が違うからしょうがないのだが、ただ仮想敵(ファントム・オタク)を叩くことに終始してしまっているため、多分このままでは溝は埋まらない。
というわけで、ここでは否定派・擁護派の「シンクロ論」に注目し、考察することで対立の溝を探っていきたい。このライブを観てすらいない部外者が!

22人の解釈

まず、前提としてこのライブでは「Liella!22人で」と、決意表明がされたようである。
μ'sから連綿と続く、キャストとキャラが揃ってライブが完成する、というシンクロの構図だ。

ただ、タイムラインではこれの解釈で揺れているようにも思える。

否定派の意見は、こういうことになるだろう。

Liella!は22人だと言っていた。しかし、役を降りて話したということは「21人と個」ということになる。よって、その場においてはLiella!は成立しない!

…で、どうだろうか。
シンクロが大事なコンテンツで役を切りはなすと、11×2の前提が崩れてしまう。そうなったら22≠21でLiella!じゃないよね、という論調だ。
こう考えるのは、「Liella!」を観にきた層だろう。パフォーマンスや歴代ラブライブ!が好きであり、Liella!においても別に個を追っかけているわけではないタイプ。だとしたら、失望感にも説明がつく。
例えるなら、テーマパークに来たのに園外にパチンコの看板やピンクなネオンが煌々と灯っているのを見てしまったような感覚があったのだろう。夢の世界が崩れたと言いますか。

まあ、こんな複雑に考えなくても自我を強く出していたのが嫌だったのだろう。

一方、擁護派の意見は…

キャラ=キャストなんだから、自分のことを話しても22人の前提は崩れない!キャラのことは大事に思ってる!気に食わないだけだろ!頑張って喋ってたんだから水を差すな!

ってところか。
一心同体なんだから切り離しようがない、ちゃんと居るということである。逆にキャストの自我を捨てて、キャラが出てくることはめちゃくちゃあるわけだから、文句を言う筋合いはないと。

こう考えるのはキャストも含め、全てを応援できる層だろう。こちら視点からすれば、否定派の意見は意味が分からない。だって、キャストの活躍も観に来ているのだから。そもそもLiella!はキャスト推しの雰囲気が強い。

うーん!難しい!
人数がどうこう、シンクロがどうこうってなんですか、これキリストの三位一体説について議論してましたっけ?
求めるものが違うんだから、意見が合わないのも当然かな。別に正解もなかろうと思う。私もLiella!ファンとはちょっと世代も違うだろうから、価値観についてズレて解釈している部分もあるかもしれないがご了承願いたい。

これを受けて

それでは、私の意見を少し。

まず、キャストとキャラでタイプが一致しないのは、μ'sの頃からままある現象だった

私がμ'sにハマりかけた頃、一番衝撃を受けたのは中の人の暴走っぷりだった。生放送を見た時は、視界がぐにゃあ…となるかと思った。
正直、こう…シンクロがあるものだから、もうちょい品行方正にしているのだと思っていたのだ。しかし、その大暴れとのギャップで、私は「面白え、このコンテンツ!」「自由だ!」と受け取れるようになった。

わかりきったことだと思うが、歴史的にも普段からなりきっているわけではないのだ。ラブライブ!は厳密なキャスト=キャラとしていない。

というか、ライブのMCで少しくらい本人のことを喋ったって良いですやん。
例えば、「今日は〇〇ちゃん(キャスト)の誕生日でーす!みんなでお祝いしよ!」という会話は絶対にやってほしいし、不調や身の上話についても話してもらった方が感情移入度は高まる。生身の人間が公演をするライブにせっかく来ているのだから、完全に自我を出さないのも寂しい。

だから、例の件に関しては擁護派である…と言いたいが、そうでもない。

では、シンクロをどのように成すかというと、時に寄り添い、時に一体となり…とキャストにもよるのだが、キャストの側にいる、あるいは共に居るという感覚で捉えられることが多い。

話す時は基本的に素だが、パフォーマンスや演技の場において、キャラを降ろすことでシンクロを成す、というのが私の考えである。つまり、憑依だ。
かといって、素の状態では完全に自由になるのではなく、発言内容も多少はキャラや世界観に制限されるところもある。生放送などではせいぜい口調やワードに気をつける程度でよいと思うが、夢の世界たるライブシーンなどでは厳しく守られるべきであろう。だからこそキャラを逃がしておいて、自力で勝負したのかもしれないが。

古いオタクからすると、「キャストであり、キャラでもある」状態から「キャストのみ」の状態になるのは違和感がある。キャスト売り偏重のLiella!であるが、あくまでもアニメコンテンツであるから一線を引くべきだろう。

結局、程度問題ですやん。コントラストですやん。
こういう話題があがると「じゃあ、今後一切なしで良いんですね?」とか、すぐ0か100で論じたがるオタクがいるが、それは違う。今回の件は結構スレスレの線、65くらいを行っていて、沸点が60くらいのオタクの気に障っただけの話だ。大体のキャストの身の上話は高くて40くらいで済んでいるはずなのだ。

何が悪いって、そりゃ役から降りたことだろう。これは一定の拒否反応が出て然るべきと思う。だって、2.5次元コンテンツですやん。22人のLiella!ですやん。少なくともライブはキャストとキャラを観にくる場であって、個の暴走は少なからず反発はあると思う。
だから、役を演じて…の方が、キャストが裏で怒られるかもしれないが波風立たなかったと思う。ただ、3期を控える中で、自分で話を作るのは制作の腰を折る可能性があったりして、慎重にならざるを得ないのだが。

どうすればいいの?

と言うのが私の感想だが、議論は依然平行線となるだろう。
意見を見てみても、否定派は「気に食わない」「俺の思う通りじゃない」、擁護派は「頑張っている」「文句言うなら降りろ!」「どうせ個人批判したいだけだろ!」ばかりでしょう。

こんな感情ベースで話したって意味がない。しかも、どちらもネガティブな話だ。できるだけポジティブな解釈を心がけたい。
しかし、降りろ!と言える相手がいて幸いだ。現に、界隈が辛くて降りかけている層もごまんといる。見えていないだけなのだ。

もっと明るい話題で満たせるよう、否定派も「ん?」と思った感情を「なぜ?」と深掘りし、建設的な議論ができるようにしてほしいし、擁護派も「頑張っている」「嫌なら見るな」などでなく何が賛否の否をかもしているのか考証し、楽しめるための意味付けをしてほしいと思う次第である。ロジカルシンキングってやつである。

みんなで楽しめるよう、意味を見出していくのもオタクの仕事なのかもしれない。

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