ベートーヴェンの交響曲5番におけるスケルツォ(MUSE2022年12月号)

 前号の拙稿にN様も述べておられるとおり5番のスケルツォの手書き原稿には繰り返しが記されていますので、先に書かれた4番や同時進行していた6番と同じく、5番も繰り返しありとして着想されたことは間違いがないでしょう。それが5番に限り繰り返しなしとして修正された、しかもそれが初演前のことだったとすれば、それはやはり5番のこのスケルツォだけがはっきりネガティブな性格のものだったことに基づく迷いゆえだったからではないだろうかと僕は感じているのです。スケルツォからメヌエットに戻された8番を例外として、4番以降のベートーヴェンの交響曲におけるスケルツォは全て繰り返し指定付きの状態で書かれており、しかもそれらには5番のものほどネガティブな曲は皆無の状態なわけですから。
 もうひとつ留意すべきはベートーヴェンの時代、繰り返しなどの指示ははたして遵守されていたのかどうか。そもそもまだ貴族の食卓での音楽として演奏されることも多かったハイドンやモーツァルトの初期作品などは、食事の長さに応じ演奏を続けるのに便利な面もあればこそ単にソナタ形式の提示部のみに留まらぬ多くの楽章に記された面もあったはずで、モーツァルトの40番や41番などでも全ての反復を励行すれば演奏時間が倍近くにさえなったのでしたから。ベートーヴェンの場合、前半2楽章だけが肥大した3番以外はある程度4つの楽章の規模を均質化しようという意図がスケルツォの反復という形で見受けられ、反復が無視されるならそれはそれで大きくバランスが崩れないよう配慮していたのではという気がします。これまで書いたどのスケルツォにもない特異性の自覚に加え、どのみち反復指示を書いても実際は無視されると思ったことが土壇場で反復指示の抹消をもたらしたのではとも思うわけです。
 ステレオ初期までの5番の録音において、スケルツォの反復はいうに及ばず、ソナタ形式で書かれたフィナーレの提示部の反復さえ行われていたレコードは稀でした。なにしろ冒頭楽章でさえ反復なしの録音もまだまだあった時代でしたから、そんな時代を思えば後半2楽章が共に反復なしというのはベートーヴェン自身の現状認識とも大きな食い違いはなかったのかもしれません。けれど楽譜の指定を遵守する時代に入ったとき、指定が消されたスケルツォを放置したままただでさえ過剰感の強いフィナーレだけがさらに長くなるに至り、存在感のバランスが崩れたように僕は感じてならないのです。延々と続いたフィナーレのコーダ寸前でなぜあのスケルツォが回想されなければならないのか。フィナーレに匹敵するだけの存在感がスケルツォに備わっていない限り、あの展開は説得力に乏しく思えてしまうのです。
 それでもあんなスケルツォがまだ他になかった時代なら、その異色さ、異常性が物理的な短さを補い得たのかもしれませんが、その後の作曲家、それもマーラー以降の交響曲を知ってしまった我々にとっては、少なくともフィナーレが反復される限りスケルツォも反復されないと所定の効果は発揮されないと僕は判断しています。たとえベートーヴェンが自らの時代の状況の中で迷いに迷って下した決断であったとしても。

 そんな5番の録音史において、繰り返しの問題が取りあげられたのはステレオ録音が完全に定着した1960年代も終わり近くのことでした(なにしろSP時代は反復どころかあちこちカットしないと一般人には手が出ないお値段になるのが常でしたから)クレンペラー治世も後半を迎えていたニュー・フィルハーモニア管弦楽団を現代音楽を中心とするレパートリーで名をなしていたブーレーズが指揮したこの1枚は、けれど彼が遺した唯一のベートーヴェン交響曲録音だったため、他の曲にどうアプローチするつもりだったのかが謎のままで終わってしまったのが残念です。彼がなにを思ってこの形で録音する気になったのか、もう半世紀近い間この録音を聴くたびに知りたくなってしまいます。
 その後70年代末に東ドイツの音楽学者ペーター・ギュルケがこのスケルツォはもともと反復指示があったと唱えてギュルケ版と俗称される校訂譜を出したことから、ブロムシュテット/ドレスデン・シュターツカペレを皮切りにスイートナー/ベルリン・シュターツカペレ、マズア/ゲヴァントハウス(フィリップスへの再録音)など東独で活躍していた演奏陣による全集録音が前後して登場し、それが古楽の分野で活躍していた演奏家のうちアーノンクールやガーディナーたちに波及したことで当時の小編成とテンポ指示を重視する演奏スタイルにも広がった。その後小編成の分野が必ずしも古楽器にこだわらなくなる中で現代楽器を用いる小編成の団体にも取り入れられていったのが録音の登場年代に注目した流れです。
 それらの演奏の中で僕にとって特に思い出深い録音がベーラ・ドラホシュ/ニコラウス・エステルハージ・シンフォニアによるナクソス盤の全集です。団体名からわかるように、彼らはナクソスレーベルでハイドンの交響曲録音に取り組んでいた団体の1つで、中期の曲を中心にかなりの曲数をまかされていました。その大仕事の後に登場したのがベートーヴェン全集だったのです。
 演出臭など皆無の実に穏当な表現なのにハイドン演奏の蓄積ゆえか、ベートーヴェンのこのスケルツォがいかに変な曲なのかが実感できるような演奏で、聴きながら僕は、曲の素性を聴き手に伝えるということは演奏者の最も重要な任務ではないだろうかとあの時しみじみ感じ入ったのです(まだ続く)

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