「鉄鎖のメデューサ」第3章

 右手の建物の陰の路地から小さな人影が一つ、次いで大きな人影が二つ飛び出してきた。

「助けて! あいつら人殺しだ!」

 そう叫んだ小さな人影が妖魔の方を見た。そしてまっしぐらに駆け抜けざまにまた叫んだ。
「そこの裏路地で! おばちゃん逃げてっ!!」

「畜生! くそ餓鬼っ」
「面倒だ。ババアもろともたたんじまえっ」

 われ先にと大きな人影が二人駆け寄ってきた。振り上げた手が握る血染めの得物が赤光りした。

 妖魔は混乱していた。最初の人影は大きさがそれまで見てきた人間の半分しかなかった。だから人間ではないと思った。しかし人間の言葉で叫んだ。ならやはり人間か。ところが後ろの人間に追われている。ではやはり人間ではないのか。それとも人間は人間も追いかけるのか。

 パニックをおこしたまま体が勝手に反応し、脚が蹴りを放ったが、軸足が凍った石畳に滑った。
 おかげで男は命拾いした。爪で腹を芋刺しされるかわりに踵が胸を蹴り上げ、背後の仲間もろとも石畳に叩きつけられた。昏倒した二人はそれきり動かなくなった。

 だが、体重の軽い妖魔もまた反動で吹き飛び路上に叩きつけられた。一瞬意識が遠くなった。

「おばちゃん!」
 ロビンは倒れた老婆に駆け寄った。だが見下ろした鳶色の目が驚愕に見開かれた。

 はだけた粗布から顔から胸にかけての部分が覗いていた。それは人間ではなかった。髪の毛のかわりに蛇みたいなものが生え、緑の鱗が胴体だけでなく顔の一部まで覆っていた。

 なのに、その顔は2年前に病死した姉とそっくりだった。

 ロビンは孤児だったから魔物に関する知識はなにもなかった。だからそれが何なのかわからなかった。ただ絶句したまま呆然とその顔を見つめていた。
 だしぬけに彼はそれが首に鎖を巻きつけているのに気づいた。どこかから逃げてきたのだと直感した。

 そのとき頭上の窓が開いた。誰かが叫んだ。
「人が倒れてるぞ!」

 ロビンの足元のなにものかが目を見開き、飛び起きた。周囲を見回した。一瞬おびえた視線がロビンを見たが、蛇のような髪が伸び上がるようにしてロビンの背後を探った。

 蹄の音が近づくのをロビンの耳も捉えた。
 姉の顔をしたそれは身を翻し駆け出した。

「待って!」
 ロビンも駆け出したが相手の姿はたちまち見えなくなった。

 小柄な妖魔は全速力で走っていた。何人かの人間にも出会ったがかまわず駆け抜けた。顔がむき出しになっているのはわかっていたが、もはや頭を覆い視界を遮る恐怖には耐えられなかった。とにかくここから逃げ出したかった。その一念に突き動かされた妖魔はただまっしぐらに大通りを走り抜けた。

 遂に視界が開けた。出口だと思った。だが、そこに見えたものに妖魔の心は挫かれた。

 大きな橋がかかっていた。だから視界が開けたのだ。だがその向こうにはいままでの建物よりもずっと大きな建物が果てしなく重なり合っていた。まるで山のような巨大な巣窟だった。

 自分が巣の中心部に来てしまったことを妖魔は悟った。

 背後に人間たちの気配が集まってきた。馬の蹄の音もあちこちから聞こえた。橋の上に出るしかなかった。
 だが、行く手の巨大な巣窟に威圧され、橋の真ん中で動けなくなった。渡りきることなどできるはずがなかった。橋の上から下を見下ろしたが、星明りだけでは様子がわからなかった。相当な高さがあることだけがうかがい知れた。

 引くも進むもならぬまま、巨大な橋の上で立ち往生した小柄な妖魔の心をじわじわと絶望が覆いつくしていった。

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