「鉄鎖のメデューサ」第29章
前から迫る強敵の姿に魔力を瞳にみなぎらせながらも、小柄な妖魔は違和感を覚えていた。つい最近刻まれた記憶が警報を鳴らしていた。
いつ、どこでのことだったか。うごめく触手の下の頭脳が一旋した。
大きな橋の上での出来事が脳裏に浮かんだ瞬間、妖魔は後ろを振り向いた。殺気に向けて放たれた魔力と同時に敵が何かを投げつけた。
「ろびん!」
自分をかばう前の二人に体当たりした妖魔の腕を短刀がかすめた。かすっただけのはずの傷から、だが想像を絶する激痛が襲いかかった。悲鳴を上げる間もなく悶絶した妖魔の体が激しい痙攣を起こし石畳に跳ねた。ロビンの叫びももう届かなかった。
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突然倒れ込んだ相手の背後から何かが飛んできた。すれすれでかわしたノースグリーン卿の目が、彼方で物を投げた姿勢のまま固まっている青年の姿を捉えた。
「トーマス! きさまら、よくもトーマスを!」
走り寄った長身のナイトの足下からラルダの声がした。
「見ろ。ノースグリーン」
見下ろした卿は絶句した。
意識をなくしたメデューサの腕が変形していた。ラルダが布を縛りつけている所から下は緑のはずの鱗がどす黒く変色し、腐乱したようにぶよぶよと膨れ始めていた。
「ハイカブトの症状だ。筋肉が壊死している。毒の混じった血を絞り出さないと腕が腐り落ちる。わかるだろう?」
目の前の光景が意味するものを受け入れられずにいるナイトの心の最後の抵抗を、続くラルダの言葉が打ち砕いた。
「メデューサにハイカブトの毒への抵抗力はない。メデューサの血では娘さんは助からないんだ!」
「そんな……」
「手伝ってくれ! あなたの方が力が強い。周りから傷口に向けて絞り出してくれ。暴れるかもしれないから私が足を押さえる。ロビン、肩を押さえるんだ!」
ショックで頭が空白のまま、いわれたとおり傷口を絞り始めたノースグリーンの耳に、ラルダの声が聞こえてきた。
「これだけの猛毒だ。あの男も花は持っているだろうが石化を解かないと取り出せない。医者がどれだけ持っているか……」
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「遅かったか……」
水をかけられた暖炉の前でアーサーが唇をかんだ。逃げ遅れたジョゼフ医師は裏口で取り押さえられることになったが、それは証拠の処分に十分な時間をかけた結果だったのだ。
特徴的なねじれた根は確かに燃え残っているものがそこかしこに見られた。メアリが直接触らないようにペン軸で鉄の箱に拾い集めていた。
大量の書類らしきものは炎と水の洗礼を受けては無事でいられるはずもなかったが、かろうじて字の読める部分が残ったものもないわけではなかった。それらも見つかる限り集められた。
だが灰色の花などはひとたまりもなかった。半分焦げたまま暖炉からこぼれ落ちたものがやっと一輪見つかっただけだった。
毒草が持ち込まれたことを示す証拠自体は入手できた。だが、解毒の花を得る目的は達成できなかった。リチャードとエリックが縛り上げた医師と押収した根や書類を本部に持ちかえり取り調べに入ることを決める間も、スノーレンジャーたちが感じていたのは敗北感と呼ぶほかないものだった。
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「これでは娘さんの意識を取り戻すことさえできない……」
持ちかえられた花を見たラルダの声は暗澹たるものだった。
「焦げた部分は使えないし、燃え残ったところも熱であぶられて汁気が抜けている。そもそも時間をかけて毒を盛られたのだから一輪だけではどうにもならないが」
そのとき、足下でロビンが叫んだ。
「ラルダさん! クルルが! 毒が!」
腕の縛り目を越えて変色が始まっていた。ラルダがさらに肩に近い箇所を布で縛った。そして呆然としたナイトに厳しい面持ちでいった。
「この花は使わせてもらう。傷口からの毒の場合なら少々乾いていても傷に練り込むことで成分が血に溶ける」
返事を返せぬ卿の顔をしばし見つめたあと、ラルダは花の燃え残った部分を手の中でもみ込んだあと、小柄な妖魔の膿んだ傷に押し当てて布で括りつけた。
しばらくすると肩へ延びつつあった変色が消え、膿が乾きはじめた。
「なんとか間にあった。広がるのは止められた」
ラルダがロビンに告げたとたん、呻き声がした。
「……なんだ。これはなんなんだ……」
足下を見つめたまま、ノースグリーン卿が身をわななかせていた。
「なぜこんなことになった? 私が神を呪ったからか? これは罰なのか? 教えてくれ!」
やおら面を上げ、震える手を差し延べる長身のナイトの顔は苦悩と絶望に染められていた。
「私のせいで花は焼かれてしまったのか? 私のこの手が希望を打ち砕いたのか? ならばなぜセシリアが死なねばならぬ、なぜこの愚かな私が生きていなければならぬ! こんな、こんなばかなことがっ……」
絞り出すようなその叫びに、誰もかけるべき言葉を見つけられなかった。
「なぜ私はあなたの言葉を信じられなかった? あなたはずっといい続けていたのに。なぜセシリアの言葉さえ聞き入れることができなかった? かくも私は愚かだったのか? 正しい言葉にも願いにも耳を貸さずに我が手で運命を閉ざしてしまったのか? 運命をねじ曲げるなどといったせいなのか? その罰として私が生きていなければならぬのか! もはや何一つできぬまま、ただセシリアが死ぬのをこの目で見ているしかないというのか!」
その絶望の叫びが、ロビンの胸に突き刺さった。
同じだ。ロビンは思った。あの日姉が死ぬのをただ見ているしかなかった自分と同じ場所に、この人はいるのだと思った。ただ時が冷酷に過ぎゆく中で、愛する者の命が削られ、細り、尽きてゆくのを見ているしかなかったあの場所に。止まりはしない時を空しく呪うしかなかったあの場所に!
よみがえった絶望の記憶がなんとかしたいという激しい思いをかきたてた。身をよじるような思いにかられながら、だが、なんの手だても思いつかなかった。そのことがさらに記憶を生々しくよみがえらせた。魂がむしられるようなあのときの絶望にロビンの目から涙がこぼれた。
そのとき、涙にかすんだロビンの目が近づいてくる何者かの姿を捉えた。
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