「鉄鎖のメデューサ」第6章

「落ちたぞ!」「逃げられた!」

 方々からそんな叫びが上がる中、ロビンは川下へ走った。警備隊ややじ馬もどっと川下へ動き出したが、人の波に巻き込まれないよう路地裏へ回った。姉が生きていた頃からずっと、ロビンは果物を船で運んで川岸で売る露天商の手伝いをすることで日銭や売れ残りの果物を得ていたのだった。だから彼はこの川の流れや淀みを熟知していた。

 橋の真ん中から落ちたのだからまっすぐな場所を流れているうちは手が出せない。けれど川の曲がる場所の水流が岸辺に近づく場所がわかっていた。だから人々がただやみくもに川下へ走り、あるいはいたずらに川面に目をこらす間に、ロビンは早々と川に近い自分の家に寄ったうえでその場所へたどり着くことができたのだった。

 川上から黒いものが流れてきた。ロビンは古い櫂でたぐり寄せた。水を含んだ重い手ごたえがした。からみついた粗布をその身から苦労して引きはがした。

 およそ人とはかけ離れた姿だった。けれど目を閉じてぐったりしたその顔があの朝目の前で息を引きとった姉の面影と重なり、あのとき魂に刻み込まれたあらゆる思いを呼び起こした。姉は、リサは、あのとき微かな声で、震える声で、生きていたかったといったのではなかったか。そして、ろくに薬も買えないまま、何一つできないまま、姉を死なせるしかなかった無力に自分はあれほど打ちのめされたのではなかったか。

 それらの記憶が人ならぬその姿に一瞬ゆらぎかけた意志を再びかき立てた。

 家にあった一番大きな上着で妖魔の体を覆い、黒い粗布を流れに押しやった。それが川岸から離れたとたん、背後に叫び声がした。

「あそこだ!」「流れていくぞ!」

 たくさんの足音や蹄の音が流れに巻かれて川を下る黒い布地を追っていった。

 足音が聞こえなくなったのを確かめて、ロビンはそっと周囲を見回した。人影は見当たらなかった。彼は力を失った体を上着ごと引き起こし、自分の肩にもたれかけさせたまま苦労して家まで運んでいった。自分とほぼ同じ大きさのぐったりした体は重く、たいした距離ではなかったのに大変な苦労を強いられた。

 だから物陰から自分たちに向けられているまなざしに、ロビンはとうとう気付けなかった。

 寝台に寝かせ毛布で体を覆うと病床の姉の面影にますます似てきた。目を覚ます気配はなかった。しかし、ロビンはもう仕事へ行かなければならない時間だった。さもなくば自分は明日からの糧を失うことになるのだから。
 もし帰ってきたとき死んでいたら。そんな怖れに抗いながら、ロビンは扉に鍵をかけて雇い主の待つ船着場に向かった。

 少年の姿が消えてしばらくたった後、人影がひとつ戸口に近づいた。
 草色のゆるい長衣の上から茶色のフードとマントを羽織っているので特徴がはっきりしなかった。背もそう高いほうではなく、だぶついた着衣のせいで体格もうかがい知れず、ま深に降ろしたフードゆえに顔も見えなかった。
 首には木の実らしきものを繋いだ念珠をかけ、手には丈夫そうだが飾り気のない木の杖を持っていた。マントもフードも長衣も埃っぽく色あせて、長く旅をしてきたらしい様子だった。
 人影は中を窺うようにしばし戸口にたたずんでいたが、やがて足早に行きかう警備隊員たちをやりすごすように建物の陰に姿を消した。


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 小柄な妖魔が意識を取り戻したとき、部屋はすでに薄暗くなりはじめていた。

 体の力がすっかり抜け、倦怠感が全身を覆っていた。しかし毛布に包まれた体は温かく、それまで纏っていたあの粗布とは全く肌触りが違った。なぜここにこうしているのかはわからなかったが、その心地よさが倦怠感とないまぜになって無防備な精神状態にいざなっていた。それはこれまでずっと張り詰めてきた神経を癒す効果を発揮していた。

 宵闇が濃くなり始めたころ、扉が開き、閉じる音が聞こえた。けれども妖魔はその音を、心地よい倦怠感の中どこかよそごとのように聞いていた。そして、正面の扉がそうっと開いた。

 小さな人影がゆっくりと顔を出した。まるで自分が目にするかもしれないものを恐れるかのような動きだった。その目が自分を見た。すると纏っていた雰囲気が目に見えてやわらいだ。
 それは妖魔にとって意外な反応だった。これまでは自分を見て驚いたり緊張したりする相手ばかりだったから。

 妖魔はじっとその顔を見た。そして思い出した。路上で二人の人間に追われていた小さな者だった。姿を見る限り人間だと思えたが自分と同じくらいの大きさしかなく、なにより自分を見ての反応がそれまでの人間とまったく違った。脱力しているせいでもあるにせよ、その様子自体が警戒心を煽らないものであることも事実だった。

 小さな者がなにかいった。それは未知の言葉だった。大きな人間が自分に危害を加えるときに発した言葉とは違うものだった。そして、おずおずとなにかを差し出し、自分の顔の前に置いた。

 林檎だった。それは樹海からさらわれて以来、目にすることのなかったものだった。震える手で妖魔は林檎を掴み、一口かじった。
 枝から落ちてかなりたった実の味だった。水気が少なく甘みも薄かった。けれどもそれは、確かに故郷で食べていた林檎の味に他ならなかった。
 胸の奥から望郷の念がせりあがってきた。石化の魔力を秘めた瞳がうるみ、ほとばしる思いが声を出すことへの、恐ろしいものに聞きつけられることへの怖れさえ上まわった。そして小さな、抑えられた、それゆえ繊細に打ち震える喉声が発せられ、長く長く尾を引いた。

「krrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrr……」

 その声はロビンにもまぎれもない望郷の声と聞こえた。そしてそれがどれほど切なるものか、彼にはよくわかった。かつて彼は力ない、か細い、定まらない声がもはやかなわぬ望みを紡ぐのをあのとき聞いたのだったから。わずかなざわめきにさえかき消される小さな声に、どれほどの思いがこもりうるものなのかを魂に刻みつけられていたのだから。
 そして、目の前にいる存在が自分にとって新しい像を結んだ。これまで死んだ姉の面影をやどす者として捉えていたそれは、姉とはまた違う願いを抱いていた。自分には姉の願いを叶える力はなかった。でも、この人間ならざる身に確かに繊細な魂を宿した生き物の抱く願いは叶えられるかもしれないと思った。

 そして彼は、どうしてもその願いを叶えたいと思った。

 いまやロビンにとって、それは切なる望郷を歌う者だった。

「クルル……」
 彼もまた小さな声で、そっと呼びかけた。

 小柄な妖魔は小さな人間が自分の声を返したのを聞いた。予想もしなかった反応だった。とまどいながら喉声を鳴らしてみた。すると、小さな者もまた自分の声を返した。もう一度。やはり同じだった。

 声を交し合うのは同じ種族に限られるはずだった。しかしこの小さな者は、違う種族なのに自分の声に応じた。ならばこの者は明らかに敵ではなかった。それどころか自分が声に託さずにいられなかったものを感じているようにさえ思われた。

「クルル、そう呼んでいい?」

「krrr」

 短い喉声を返した妖魔を奇妙な安堵が捉えた。暖かな倦怠感に不思議な安堵が加わり、妖魔は再び眠りの中へとゆるやかに滑り込んでいった。それは故郷から連れ出されて以来絶えてなかった安らぎに満ちた眠りだった。

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