「鉄鎖のメデューサ」第2章

 家の中に残っていた食べ物は3日でなくなった。ここから出なくてはならない時が来たことを小柄な妖魔は悟った。

 この3日間で体力はかなり回復していた。だが深夜でさえ完全には途絶えない人間の気配のおかげでほとんど眠れずにいたことから、精神的な疲弊はむしろ増していた。気配の多い日中は地下室の片隅で黒い粗布の下に潜り込み、震えているばかりだった。その粗布は凍っていた自分が運び込まれたときに覆いとして使われていたものだったが、むろん妖魔の知るところではなかった。皮肉なことに、今やそれはむき出しの恐怖からわずかながら身を遮ってくれるかけがえのないものと化していた。

 ここを出るなら深夜しかなかった。そして、自分の姿をさらすわけにいかないこともわかっていた。妖魔はもはやなくてはならないものになっている粗布を苦労しながら身にまといつけた。頭からすっぽり被り込み、前がはだけないように短い腕で内側からかき寄せ、長すぎる裾が足にからまないように触手と尾でやはり内側からたくし上げたので、われ知らずちんちくりんで着膨れた背の曲がった老婆のごとき外見になっていた。

 深夜になった。妖魔は戸口でしばらく気配を探り、人気が途切れているのを確かめてついに外に出た。
 雪は降っていなかったが街路は凍りついていた。足跡が残らないのは救いとしても、滑る上にちぎれそうな冷たさに足が痺れ、とうていまともに走れそうな気がしなかった。
 道が両側に延びていたが、どちらにいけばいいのかについてはなんの知識もなかった。
 耳を澄ませた。左手方向は遠くでざわめきが聞こえたので反対方向に足を踏み出した。

 道の両側はどこまでも建物が並んでいた。その中は人間たちであふれているはずだった。自分はこの場所の外へ出たいのだから人間の巣に近づくわけにはいかなかった。おのずと道の真ん中を歩く形になった。
 激しい恐怖が襲ってきた。眼点を持つ触手を粗布で覆っているせいだった。いつもなら全ての方向が常時見えているのに、今は顔の正面にあるものしか見えない。気配だけは探れるにしても、どこから人間が近づいてくるかわからないこの状況下で視界が限定される恐ろしさは想像を絶するものだった。周りの巣穴の全てから見張られているような気がした。ともすればすくもうとする脚をむりやり動かして、ひたすら歩みを進めた。

 すると向こうから馬に乗った人間が二人やってきた。たちまち両脚が硬直した。
 鎖を切って逃げ出したとき馬に乗った者どもに追われた記憶がよみがえった。

 あの時は開けた場所だったから、小回りが効く自分は追っ手をなんとかかわせたのだった。とはいえ崖から滑落してクレバスを迷ったあげく、吹雪に巻かれて力尽きる結果にもなったが。
 だが、ここは両側が人間の巣で遮られた一本道。相手は二人。直線では馬の脚にはかなわない。だいいち騒げば周囲の巣という巣から無数の人間があふれ出るに違いない。

 ならばひたすら目立たないようにするしかない!

 あわてて道端に退き、地下室でしていたように地に伏せた。脚を抱えるようにしてひたすら身を縮めた。縮んで縮んでこの身がなくなってしまえばいいとさえ思いながら。

 馬の歩みはまったく歩調を変えずどんどん近づいてくる。
 恐怖が高まるにつれ、われ知らず両目に魔力がこもり始めた。

 真正面で馬の歩みが止まった!
 全身が心臓ごと硬直した。自分が石になったようだった。

「……物乞いか。この寒いのに」

 伏せた顔のすぐ手前の地面に投げられた小さな物が硬い音をたててはね落ちた。

「警備勤務中に貧民に施しなど不謹慎だぞ!」
「いいじゃないか。婆さん、たまには暖かいものでも食えよ」
「きさまはそもそも貧民どもに甘いんだ」
 再び馬が歩き出し、まだなにか言いながらそのまま遠ざかっていった。

 気配が去ってかなりたってから、小柄な妖魔はやっと長い息を吐いた。自分の姿を見られずにすみ、敵意を誘発させずにすんだのだと実感した。
 彼らの会話には知っている言葉が混じっていなかったから意味はわからなかったが、少なくとも「メデューサ」「化け物」「怪物」などの呪わしい言葉はなかった。だからこそ、自分はあのぎりぎりの瞬間に恐慌に落ちずにすんだのだった。

 種族の常として産み捨てられた卵から孵化して以来ずっと独力で生きてきた妖魔には名前などなかったが、縄張りを侵す同族や敵に警告する発声機能は持ち合わせていたし、群れで行動する他種族の動向を察知するための解析能力は親の教えを受けられない身にとって極めて重要なものだった。樹海を渡る猿の群れは餌のあるところへ移動しているのか危険から逃げているのか。樹海の外れの草原の支配者である群狼は狩りをしているのか移動しているだけなのか。自分の学習能力一つで妖魔はそれらの様々な声とその意味するものを聴き分けながら生きてきたのだった。

 そんな妖魔が人間に捕らえられたとき、真っ先に覚えたのが彼らが自分を指していう「メデューサ」「化け物」「怪物」などの言葉だった。だが、それは単なる呼び名ではなかった。他種族の発する音声をその行動の意味に結び付け理解する妖魔にとって、なによりそれは人間が自分を害するときに発する音声にほかならなかった。例外はなかった。自分を捕らえて虐待するか、樹海の奥の森ゴリラなどとは比較にならぬ凶暴な力で粉砕しようとする者ばかりだったのだから。

 自分の姿を見た人間がそうして襲いかかってくるのなら、自分は姿を見せてはいけない。小柄な妖魔はそう考えたからわが身に粗布を纏った。その結果、馬に乗った人間たちは自分に呪わしい言葉を吐かなかったし気配にも害意が感じられなかった。だから自分もぎりぎりで恐怖に耐えられた。その結果、彼らは危害を加えることなく去った。

 これならこのおぞましい人間の巣窟から本当に抜け出せるかもしれない。

 きわどい危機を切り抜けられたという思いが恐怖の暗雲を払い体に力を与えた。これまでとは見違えるような確かな足取りで、妖魔は凍った石畳を踏んで立ち上がった。

そのとたん叫び声がして、数人の人間の足音が駆け寄ってきた。

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