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自分のための書くグリーフケア(1)誰にも言えない

グリーフケアとは、大切な人を亡くしたことによって生まれた喪失感や絶望との付き合い方を考え、生活を続けていくために自分自身のケアを行なっていくことです。このnoteでは、2017年に友人を亡くした私が、自分のためのグリーフケアとして、素直な気持ちを書いています。
※「自分のため」を優先して書いています。読む方によっては、辛い気持ちになってしまう言葉もあるかもしれません。「なんか嫌だな」と感じたら、すぐにページを閉じてください。

毎年、友人の命日が来るたびに、彼を思って文章を書いた。1年間365日「会いたい」と思って、でもそれは誰にも言えなくて、積もり積もった気持ちを、1つの手紙のような文章にだけ託して、あとはほとんど沈黙した。そうやって丸5年が経った。もうすぐ、彼がいない人生の7年目を迎える。

生活は続いている。傷つけられたり、傷つけたりして、悲しいことがあるたびに「どうして今、私のそばにいてくれないの」と恨めしく思ったり。そうやって生活は続いている。病気になることも、事故に巻き込まれることもなく、健康で、不安定ではあるけれど食べていけるくらいの仕事はある。そうやって生活は続いている。

29歳が目前に迫ると、急に、「30歳を迎えた自分」がリアルさを増してきた。気づけは、周りの多くの知人が結婚し、出産し、家庭を築いている。家庭を築くということは、生き続ける意志だと思う。そこにいることが当たり前の存在になるのだから、強い関係性を持った人へ、生きる責任が生じる。そういう選択をしている人を、私はただただ「すごいなあ」と思っている。

死にたいわけじゃない。ただ、生き続けている自分がうまく想像できないだけ。23歳で友人を亡くして、26歳で恩師を亡くした。その時思った。「もう大切な人を亡くす経験はできないから、私はできるだけ早く死にたい」と。次はもうないぞ、と。次が来たらもう、耐えられないぞ、と本気で思っていた。

幸い、大切な人たちは元気で暮らしている。今のところ、差し迫った恐怖があるわけではない。でも、最近、「30代になったら何をしよう?」と考える機会が増えてきて、それと同時に「私、30歳まで生きるんだっけ」と疑問に思った。「私はできるだけ早く死にたい」と思った時から、なんとなく30歳から先の人生が抜け落ちてしまった。無計画、無鉄砲と非難されるかもしれないが、「20代のうちに全てをやり切るぜ!」という心意気ではちゃめちゃな日々を送っていたわけではなく、ただ、普通に暮らし、普通に人と交流し、普通に未来があるような顔をしている。が、30代になった途端、それがプツリと途切れてしまうような感覚があるのだ。

だから、「30代になったら何をしよう?」と思案をするたびに、居心地の悪い気分になる。当たり前にそれがやってくるような気がしないのだ。死にたいわけでもないし、命を絶つ予定もないけど、だから生き続けている、という確信もない。

周りの人がどんどん生きることへの責任を自らに課していく様を見て「すごいなあ」と思いながら、そのような行動を起こせない自分が欠けている気がして、それもまた辛い。なんだかいつも、プツリと途切れる人生を前提に選択しているような気がする。「2年契約?でも2年後にどうなっているかもわからないのに?」「一生が同じ長さじゃないのに、一生一緒にいたいって言えるの?」「この人と関係を深めても、大変な時にはもうそばにいないかも…それって酷いことじゃない?」なんて。私の素直な思いなのだが、色々なことやものに対してとても失礼な態度な気がして、もちろん口には出せない。「生きようが死のうが、その人の自由」と断固とした意見を持っているが、いざ自分が半々な感情を抱いていると、罪悪感を覚えてしまう。「死にたいわけじゃないけど、生き続けるかわからない」なんて、誰に言えよう。


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