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タイトルなし

なすびくんやのに、
なんでピーマンやねん!と思った
そこのあなた。

関西人なんですね。

すいません。ふざけました。
ここからは真面目です。

自由に絵を描いてください。

これはかなり難しい指示だと思う。

自由。
なんでもいい。

そういわれて描いて、表現した絵は
他人から見たら
自由で無限の選択肢の中から
あえて選んで描いたものに
なると思う。

そういうことを考えて描けなくなる
わけではないのだが、
自由という言葉の中に
不自由を感じてしまう。

自由に描いていい時に描いたもの
なのだから、それを描いた理由
がないといけないと感じる。

そもそも自由に絵を描いて、という時点で
絵を描くこと、
紙が用意されているのならその紙の画角、
おそらく近くにあるであろう鉛筆や色鉛筆を使うだろうから描く道具、
など、様々な不自由、制限が設けれられていて自由じゃない。

「この文章を読んで思ったことを自由に描け。」
なんでも自由ってつけたら
自由になるわけではない。
読む文章が決められている時点で自由じゃない。

サッカーボールを描くってことはサッカー好きなんだ、
という当たり前のような考え方も、
超芸術的に考えたら当たり前でないと思う。
ただ、サッカーボールを描きたかったから。
あの幾何学的な、多角形で形成された球
が描きたかった。って人がいるかもしれない。

小学校での図工の授業は自由が多かった。
好きなものを表現することが多かった。
だんだん自分の絵や表現は上手でない、似ていない、繊細でない、ことがわかっていった。

上手じゃない絵で、自分の好きなものを表現するのは抵抗があった。

でも中学校での美術の授業では、
作ったものといえば、
茶碗。箸。紙粘土でピーマン。自画像。修学旅行のアルバム表紙の砂絵。
など思い出せたものの中で、自由に表現したものは少なかった。もちろんどんな茶碗にするか、箸にするか、先生が買ってきたどのピーマンを忠実に再現するか、どの鏡に写った自分を描くか、どの京都を砂絵にするか、など自由はあったけど、制限の中の自由だから、選びやすかった。

自由に、好きなものをというのが難しかった自分にとってありがたかった。

そのピーマンは今でもお気に入りだ。

適したアイデアはほどよい制限、ほどよい縛りがないと生まれない。

「何食べたい?」
「なんでもいいよ、おいしいもの。」

なんでもいいよが、1番ずるい。