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令和時代の結婚と家族

先程是非ネタにさせて頂きたい投稿が落ちてきました。笑
勝手に埋め込んでいいのかな?問題あれば教えてください。

この話の前にですね。

疫病蔓延という初の事態の中活動自粛を余儀なくされたバンドマンの皆さまが「ツイキャス」というものをしてくれたおかげで
私は”配信界”という新しい世界を知ることができたわけなんですが
これがまた面白い世界で閲覧数が上位に行けば行くほど社会性がなくなってきます(笑)
例えばネカフェ暮らしをしているある女性の個室は、インスタント食品の食べ残しや紙袋、何かわからない布類等が散乱するゴミ屋敷と化しており、入浴は10日に一度程度だそうなんですが
目鼻や輪郭は美しく整形し、新しい服を身に纏い、ネイルとマツエクは月一、美容室にも行く。というのですから
いかに「他者に見せるための自分」というものが重要視される教育だったかが伺えます。
私なんて美容室は半年に一度程度になっていますしネイルサロンやマツエクは未だ未経験ですからw女子力では圧倒的に負けています。

そもそも、10万円以下の家賃の部屋に住みながら20万円のブランドバッグをレンタルしてまで持ち歩くというのは、冷静に考えると大変に謎が深いものです。
”自分が満足したいから”というパワーがありそうな言葉の裏には、
誰かに見られる自分が自分の理想でありたいという、エゴの満足が隠れており
心の満足ではないので、どれだけ手にしても満たされることはありません。

一昔前は結婚や家族がそのブランド品のうちのひとつのように表現されていたりもしました。
結婚できる、できない、
まるで見えないハードルが置かれているかのようにして、「誰かに選ばれる自分」というテストに合格することで自分を認めるというような心理かと思います。

我々の親世代の結婚は、そのほとんどが依存関係です。
経済的、精神的、肉体的、及び自分を痛めつけてくれるパートナーを確保し無意識に幼少期の補償行為を行うというのもまた依存です。
依存関係であるからこそ相手の浮気やDVに対して被害者意識を持つわけですし
それでも妻(夫)として母(父)として健気に頑張るかわいそうな自分をなんとか人間のままいさせてくれる存在として子供にも依存しているわけですね。
そして子供は母(父)を偉大な存在として自分の上に置き、嫌いな方の親に似たパートナーを選び新たに依存関係を築き上げます。
大きな表現ではこれを世代連鎖と言います。

上記の投稿は、この世代連鎖依存を持ったまま単身でいる時間が長くなってしまった男性の話をしていると思うんですが
家族に対するあれこれを解決せぬまま独身でいる時間が長くなると
拘りが強くなる、というか
対人関係に置いて他者を一定の距離以内に入れないようにする発言が多くなるのです。それが拘りとして聞こえているのだろうと推測します。

昭和から平成の多くの家庭では、素敵な家族像というものをお隣近所に見せてね?というような無言の教育を受けてきました。
いつも書いていますけれども、怒る、泣く、取り乱す、落ち込む、喜ぶ、などの感情を、表現することに何らかの制限があった場合には、
そもそも家庭内でもありのままではなかったはずなのです。
そしてその子が成長し自活をして恋愛もろくにしないとなると、ありのままで居る時間が増えてきますね。
これがびっくりするほど楽なので、恋愛は愚か対人関係全てが面倒になったりします。(それゆえネット内など一枚壁を隔てた位置で人間関係を持っていることが多い)
この言いようのない自由さが、結婚はした方がいいという観念と対極の周波数を持っているために
素敵だなと思う異性の前で対素敵な異性用のキャラを演じながら
でも譲れない自分というものが既に確立されてしまった証を拘りとして相手に伝えてしまうのですね。
笑顔で話題を提供しながらも”これ以上近付かないでね”という見えないメッセージを送っている状態です。
実際、こうゆう家庭で育った人が恋愛や結婚をするには、常に家族用の仮面をつけて接することになりますから、大変に疲弊します。

しかし多くの家庭が家族に対しても何かしらの仮面を被って生活しています。
コロナ禍での自粛期間中ずっと家族と一緒にいることで息が詰まる、、というのは、つまり本性を受け容れ合えていないがゆえの苦悩です。
そんな苦悩を抱いているのは自分だけだ、自分が我慢すれば良いのだ。と言い聞かせたところで、Twitterを開けば自分と同じような大人がたくさんいることがわかります。
このご時世、どんな弱者の小さな声であっても必ず共感者がいるということがわかりますから、誰もが自己主張できるんですね。
そんな世界線にいて、平成までと同じ結婚、家庭の概念が通用するのでしょうか。

私個人の意見としては、現代の結婚に最適な様式として別居婚が現実的だと考えていますが
双方の経済的な自立が条件になってくるのと、信頼関係が強固なものでない限り金銭トラブルが懸念されます。
そして結婚の意味とは?と思いそう。

もしも世代間の依存を断ち切れたなら、単身で生活や娯楽を楽しむことでも、人によっては過去に感じたことの無いレベルの幸せを味わうことができます。

そんな大人が増えたら子供が増えないではないか
老人ばかりの社会でどうやって経済を回していくんだという声が聞こえます。

いえ、子供を産みたいなら産めば良いと思うのです。精子バンクなんていうのもありますし、健康で自立している女性であれば遺伝子を残す事は可能です。
そして育てる人が生みの親である必要はないとも思うのです。母親の戸籍上の性別が女性である必要もあるのかしらと思ったりもします。
ここには様々な事情と感情が絡んでくるので、掘り下げずにおきますけれど
長い目で見て、一つの家族とは男親ひとり+女親ひとり+子供という決まり事はなくなっていくのではなかろうかと、薄ら推測をしているところです。
※子供を産みたい、と、育てたい、は違う願望ですので、しっかり見分けたいところです。

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いずれにしても
本当に子供を“産みたい”のか それとも子供を”育てたい”のか
はたまた本当にひとりで居たいのか、見栄を張ってはいないか
本当にその人と一緒に居たいのか、
といった本音を探っていかないと上手くいきません。
潜在意識と顕在意識は同じ方向を向かないと事が動きませんから
無意識に持ち歩いている観念を外しながら自分の本音を自分で暴いてゆくことが重要です。



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