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On Air from Fukuoka #1(前編)

アラタ・クールハンド/Arata Coolhand

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福岡あるいは九州に在住、または以前住んでいた方や出身とするモッド・レジェンドたちにあれやこれやと突撃インタビューをするコーナー。記念すべき第1回目にご登場願ったのは、イラストレーター/文筆家のアラタ・クールハンドさんです。

出身は東京都ながら、現在は福岡にも拠点を置き2カ所で生活しているいわゆる“デュアルライフ”の実践者。80年代半ばには東京モッズシーンに身を置いていた人物で、当時は東京モッズの殿堂的ライブハウス《新宿JAM》(*1)のイベント『マーチ・オブ・ザ・モッズ』にバンド出演もしていたそうです。モッズメーデージャパン2017のイラストや当マガジンのロゴデザインも手がけてくださっております。

今回は、時代の空気もふくめた当時のシーンの様子などを2部構成でたっぷりうかがっていこうと思います。

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module(以下 m ):本日はよろしくお願いします。

arata coolhand(以下 a ):こちらこそよろしくお願いします。


m:現在、福岡県にお住まいなんですよね?

a:はい、福岡市内に残る米軍ハウス(*2)に住んでいます。界隈には60年代後半までベースがあり、大勢の兵隊が住んでいたというエリアです。出身地である東京との2拠点生活ですが、現在は年間の3分の2九州にいますね。快適なのですっかり在福期間の方が長くなり、スクーターも昨年福岡に持って来ましたよ。


m:そうなんですね。福岡にいる僕らとしては嬉しい限りです!
今回モジュールのロゴ制作にあたって、伝えたいことなどがあればお聞かせください。

a :うーん… 見た人それぞれが個々人で感じてもらうことが重要なので、こちらからなにかをというのは特にないんですよね。敢えていうとしたら「それっぽくしない」ということかなあ。


m:それはまたなぜなのでしょうか?

a:昔から僕はオーソライズされると一気に興味を失ってしまうタイプなんですよ。なので今回は”いかにも”なものでなく、モッズが持っているパブリックイメージから少し外れたタッチにしたいなと。
そもそもモッズの語源のひとつであるモダニスト=近代主義者というのは、ひとつのスタイルに固執せず常に革新を求めることを旨とするイデオロギーのはずです。だから「◯◯っぽい」は不相当。「裏切ること」こそがモッズたる所以というね。そんなところがロゴににじみ出ていれば自分的には正解かなと。今回はMODuleのみなさんにそこをご理解いただけたのはすごく嬉しいですね。


m:ロゴひとつに対しても、深い意味があるのですね! 
それぞれのモッズの定義がある中で、音楽も様々で、影響を受けた年代もバラバラ、ましてや洋服とスクーターだけに熱をあげている方など、独自の解釈があると思われます。それについてはいかがでしょうか?

a:モッズ・ムーブメントは英国的エッセンスを主成分にしてはいるものの、黒人文化を白人が初めて自己昇華に成功した世界初のクロスオーバー・ユースカルチャーだったというのが僕の認識です。ユニオンジャックを背負いつつも米国製デニムを履きイタリアンスクーターに跨がるという、アンビバレンツを是とするようないわば収斂志向(しゅうれんしこう)が根っこにある。なのでイメージを限定し過ぎるべきではないという解釈ですね。
さっきの話の続きになってしまうけれど、彼らはスタイルに固執せず常に革新を求めることを是としていたはずです。なので前時代的モーターバイクではなくモダンなスクーターを選んだのでしょう。で、飾り付けた数々のミラーやライトは、その進化過程での刹那的な状態に過ぎなかった。なのでデコレートしていたのはほんの一瞬の出来事であり、大多数がやり始めたらとたんに廃れていったのはジツに道理が通っているんですよ。なので、モッズはこうあらねばならない、というようなファンダメンタリズム(原理主義)な志向とは本来対局なはずなんです。自分の中にもオーソドックスなものに対する反発心がスゴくあって、モッズカルチャーとはそこの部分で合致したんだと思いますね。

もちろん典型的なモッズスタイルの追求を腐すつもりはなく、みんなそこから入ったわけだからそれはそれでまったくOKで素敵なことなんだけど、軸さえぶらさなければ上級者はもっと混沌とした方向に向ってもいいのではとも。


m:当時のモッズは拘りだけでなく何かしら新しい物を必ず取り入れるクロスオーバー文化の第一人者だったという事ですね!
ところでアラタさんのアーティスト活動はいつくらいから始まったのでしょう?

a:赤ん坊の頃、ベビーサークルから手を伸ばし鉛筆で壁に無数の円を描いてしまったと母親から聴かされているので、2歳の頃からということになりますか(笑)。学生時代は知人の美術監督から映画やCMのコンテ描きの仕事をもらったり、会社員時代はアルバイトで音楽雑誌にカットを描いていたりしましたが、商業アートを生業として食べていけるようになったのは30過ぎてからです。最初からアーティストを目指していたわけではなく、サラリーマン時代が9年ほどあって退社後にそれで食べていこうと目指しました。一本立ちできるまでのフリーター時代は肉体的にも金銭的にも大変でしたが、それがまったく苦にならない楽しい時代だった。それもあって今も一番懐かしく思い返せる時代ですね。


m:幼少の頃からの活動が今に至るのですね(笑)。
強く影響を受けたアーティストがいたら聞かせてください。

a:う~ん…それを一言でいうのはスゴく難しいなあ。僕は誰かひとりから絶大な影響を受けるタイプではなく、大勢から少しずつインスパイアされるタイプの人間なので、書ききれないほどいますよ。ミュージシャンをはじめ、映画監督、画家、文筆家、デザイナー、写真家、漫画家、造形家、陶芸家、建築家、噺家、俳優、武道家…などなど挙げれば枚挙に暇がないですね。この話だけで本一冊分くらいになっちゃうな(笑)。


m:アラタさん自身がまさにクロスオーバーなお人ですね。
地元が東京ということで多感な時期から多くの刺激が環境的にあったと思いますが、80年代中期モッズシーンに出入りされるようになったきっかけは?

a:学生時代に小田急線という私鉄路線の某駅ビル内にある喫茶店でバイトしていたんだけど、向かいのレストランでモッズが働いていてね。彼との邂逅(かいこう)がきっかけでした。ランブレッタGPで通勤していてそれが駅の階段下に停まっていて、眺めていたら「きみ、モッズだろ?」と話しかけられて。その時新宿のJAM(*2)に誘われて、月イチで行われていたイベント『マーチ・オブ・ザ・モッズ』に行ったのがシーンに顔を出すようになった最初です。この辺りについては随分前になりますがブログ(*4)に書いていますのでご参照いただけたらと。

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※当時ギタリストが在籍していた早大《ブリティッシュビート研究会》の部室前で


m:当時の東京モッズシーンは、どんな空気感だったのでしょうか?

a:概ねは良い空気でしたよ。ただ一部には新しい参加者に排他的な者もいましたね。のちに大勢から異口同音にその話を聞くのでやはりそうだったかと(笑)僕はパブロックやガレージが好きだったので、同時にパンクスのギグなんかにもよく顔を出していましたが、あっちは序列もなくいつ行っても温かく向えられた印象です。まあ、みんなまだ20代前半で同年代ばかりだったし、大勢人が集まればままあること。当時のシーンもそのご多分に漏れなかったということでしょう。

でも、良い意味での“なあなあ” な空気がなかったことも事実。ナルシスティックな自己憐憫の空気もなく、「傷のなめ合い」のような習慣のない非常にポジティヴなシーンでした。互いのファッションやスクーター、アティテュードに対するやり取りなど闊達で、研鑽し合う関係性とイイ緊張感がありました。ムラ社会とはまた別の「チェックする眼」をそれぞれが持っていた。あんな空気のシーンは他のジャンルでもなかったんじゃないかな。今思うとスゴく貴重だったなと。

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※モッズによるモッズのための定例ライブ『マーチ・オブ・ザ・モッズ』が行われていた明治通り沿いにあった『新宿JAM』横で。
右のスクーターに跨がっているのがアラタさん。後ろに乗っているのはのちに東京スカパラダイスオーケストラにギタリストとして参加するマーク林氏


m:東京のモッズシーンに最もよく出入りしていたのはいつ頃だったのでしょう?

a:もうかなり昔の話。84年の秋あたりから大体2年間くらいだったと思います。今思うと短期間でしたね。当初はまだ10代だったし、それだけ内容の濃い日々だったということなんでしょう。


m:なるほど!文章では表せない濃い内容を想像しますね(笑)その後シーンには出入りは?

a:90年頃に一度だけ川崎の『CLUB CITTA'』開催でのモッズメーデーに行っていると思います。当時ブルーハーツだった甲本ヒロト、ロッテン・ハッツの真城めぐみら数人で行った記憶です。僕らは渋谷のLIVE INNでやっていた頃しか知らなかったので、どんなふうになったんだろうかと物見遊山半分、同窓会気分半分で(笑)。で、着いてみたら会場の大きさや動員の多さにびっくり。時代はちょうどバブル経済まっただ中で、メーデーも身内でやる手作り的なものからメガイベントになっていった過渡期だったんじゃなかったのかな。その後00年代に入ってTHE MINNESOTA VOO DOO MENというガレージバンドで歌う機会が増えてから数回参加していると思います。

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※深夜のランで給油する世田谷のモッズたち。サングラスがアラタさん


m:90年代の東京は雑誌、テレビと色んなメディアへの露出も凄かったですね。メーデーのフロントアクトでもあるスクーターランも凄い台数が集まってましたよね。
アラタさんのこれまで所有されたスクーター歴を教えてくださいますか?

a:一番最初はVespa ET3 125 Primaveraでした。向島のヴェスパショップエグチに行って、ストックの中にあった次レストアする1台をオーダーした記憶です。その次がSprint Veloce 150。ラージボディに乗りたくてET3購入の翌年に探しまわって買い換えました。確か鐘淵のスクーター屋だったかな。当時はまだこのクラスの旧車も品薄だった上、めずらしくサイドカバーがメッキしてあったので即買いでしたね。それからしばらく空いて、今世紀に入って間もなくひょんなことからLambrettaSXを購入し現在に至るという感じです。


m:80年代から90年代始め頃までは旧車を手に入れる事すらが困難とされた時代でしたからね。当時の先輩からもタッセルやグリップ1つ揃えるのも大変だったとお聞きしております。
今みたいに恵まれてはない環境の中、様々なスクーターに乗り継がれてこられたのですが、お気に入りの1台、または何かエピソードがあればお願いします。

a:やはり最初のET3かなあ。深夜の首都圏を一番一緒に徘徊した車両ですが、ワイヤーが切れてよく立ち往生させられたのもコイツ。スクーターランだけでなくバンドのリハーサルやライブ本番のアシとしてもよく走ってくれました。
そうそう、月刊PLAYBOYの取材で当時イメチェンしたばかりの小泉今日子がこのET3に乗ってるんです。JAMの前に溜まっていたところスクーターと共に撮影のオファーを受け、六本木界隈の倉庫を改装したスタジオまで行ったんだけど、失礼ながら彼女とのフォトセッションよりも日当がスゴくいいことに魅かれた記憶(笑)。このあたりの話もなかなか面白いのでまた機会があれば。ともあれ買った二輪がバイト代を稼いでくれたなんて、人生初の出来事でした(笑)

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※吉祥寺のアイリッシュパブの前で


後編に続く

(後編ではさらにミッド80sのシーンのエピソードが。そして当時のシーンを彩ったモッドたちも飛び出します。乞うご期待!)


[ 脚注 ]

(*1)歌舞伎町は明治通沿いにあったライブハウス。のちに「新宿JAM」となるも1980年代当時は「Live Studio JAM」という名称で営業、モッドたちは「ジャムスタ」と呼んでいた。18年に西永福に移転。

(*2)駐日米軍の兵士用借り上げ住宅として建てられた木造家屋。平屋であることが多い。正式名称は「Dependents Housing」。

(*3)渋谷区道玄坂にある「渋谷駅前会館」の上階にあったライブハウス。海外アーティストの公演も多く開催した。88年閉店。

(*4)「MODS MAYDAY レポートの前に…」

◆プロフィール

アラタ・クールハンド  Arata Coolhand
イラストレーター/文筆家

広告、挿絵、ロゴタイプの制作などの「描く」と、本やコラム執筆の「書く」を仕事とする。09年フラットハウスと命名した首都圏に残る古い平屋住宅と、そこで暮らす住人たちを紹介する『FLAT HOUSE LIFE』をリリース。以降は住宅から生き方を考えることをテーマにした著書を多く発表する。自らも工具を握り古家の再生事業『FLAT HOUSE planning』を主宰。出身である東京と、以前から暮らしてみたいと思っていた福岡県2ヶ所の木造平屋で暮らす“フラットハウス・デュアラー”。

【著書】
・『FLAT HOUSE LIFE1+2』(TWO VIRGINS)
・『FLAT HOUSE LIFE in KYUSHU』(辰巳出版)
・『FLAT HOUSE style』(自費出版/テンプリント)
・『HOME SHOP style』(竹書房)
・『木の家に住みたくなったら』(エクスナレッジ)
・『再評価通信 REVIVAL journal』(TWO VIRGINS)

【CD】
・『FLAT HOUSE music』(ユニバーサルミュージック)

・オフィシャルブログ『LET HIM RUN WILD』


◆On Air from Fukuoka #1 (後編)はこちらから  ↓


■ インタビュアー:fame the mod(コウジ)/module

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