つきなみだけど震災後に考え方が変わったという話
東日本大震災から約4年半。自分の親族の中に大きな被害を被ったという人はいない。間接的には何らかの影響を受けているかもしれないが東北に住んでいる親族もおらず親族の中で震災の影響を最も受けているのは結果的に自分なのだと思う。
20代前半で経験した阪神淡路大震災のとき自分は自動車メーカーで有名な豊田市に住んでいた。生まれて初めて経験する大きな揺れに多少の動揺はしたがテレビをつけるまではこれほどのおおごとであるとは思いもしなかった。
それから16年経っての東日本大震災。経験した揺れの大きさや数は阪神淡路大震災を大きく上回るもこのときもまたテレビをつけるまで自分が肉眼で見える範囲の外で何が起こっているかは想像しなかった。そしてインターネットで情報を見ても電車が止まって歩いて帰っているときも”心配する”という意識はあまり感じなかった。
その後の報道や身近な人の話を聞いて事の重大さを認識することになるのだがどこか冷めている自分がいた。それは自分と直接関係があると思えなかったからかもしれない。嫌な表現になってしまうが自分にも自分の親族にも特に何も起きてはいない。自分の身の回りにいる人たちの中で怪我をしたという人もおらず唯一感じるのは誰もが皆精神的不安を抱えているということことくらいだった。
正直言ってそれでもやはり人のことを心配する気持ちが自分のことを心配する気持ちを上回ることはなかった。このときにはっきりと気がついたんだと思う。自分は人の為に行動する人間ではなく自分の為に行動する人間なんだと。今まで気がつかなかったのではないと思う。気がつかなったのではなく罪悪感から気がつかないフリをしていただけなんだと思う。
そのことに気づいてしまった自分は良い意味でも悪い意味でも吹っ切れたのだろう。正直に生きようと決めた。
社会的な自分よりも自分らしい自分でいよう。そう言うと聞こえは良いが不要な気遣いは止めようと心に決めた。世間一般で「こういうときはこうする」的なことがあっても自分がやりたくなければやらないようにしよう。自分が無理をする時間はもったいない。明日何が起こるかわからないのに無意味なことに使っている時間はない。
震災は突然やってきて多くの人の大切なものを奪っていった。たまたまその出来事が自分のところに来なかったのは運の良いことだがそれでもいつ自分の人生が終わるかはわからない。子供じみた考え方だが震災が起こるまでは自分が突然交通事故にあったり病気になったりましてや震災の犠牲者になるなど考えたこともなかった。そんなことが起こるのは一握りの運の悪い人だけなんだと考えていた。
震災以降の報道などに触れてその考えが間違っていることに気がついた。明日でも明後日でもなくこの瞬間にも自分に起こり得ることだと感じたのだ。
自分の人生がどれだけ残されているかを知る術はないがやりたいことは山ほどある。やりたくないことをやっている時間なんてない。
「やりたくないことはやらないようにしよう」
やりたいことだけをやろう。ではなく「やりたくないことはやらないようにしよう」なのはやりたいことにはキリがないからだ。やりたいことをやる時間を作るためにやりたくないことはやらないようにしよう。そう思うようになった。もちろんやりたいことをやるためにやりたくないことをやることはあるが。
体面や体裁を考えて行動することは一切なくなったと思う。元来人目を気にする性格なのでそれなりに体面や体裁は整えてはいると思う。ただそれは「やりたいこと」のひとつに含まれているとも言える。
“やらないこと”と決めた中で一番大きなことは無駄な人付き合いをしない。ということかもしれない。一度できてしまった関係性を断つのは難しい。しかも相当な労力も必要となる。だがその関係を続けることで失われる時間も相当な時間になる。であるならば何も考えず断ち切ろうと思った。そして今はそう行動している。
「今度飲みに行こうよ」となんとなく誘われてなんとなく飲みに行くこともなくなった。その時間が今の自分にとって必要なのか?を考えるようになった。面倒くさそうに聞こえるかもしれないがそう考えると惰性で過ごすことはなくなった。
人生の中にどれだけ自分のやりたいことを詰め込めるか?が人生の目標である。人が生まれてきた意味や存在価値を考えても無意味だと思えるようになるにはまだもう少し時間がかかると思う。ただどれだけ偉大な人物であろうとも歴史に名を残したとしても本人にとってはそこに意味はない。生きている間に何を行ったか?それを実感しながら生きることだけに意味があるのだ。
よく「歴史に名を残したい」という人がいるが死んでからその人の名が残っているかを確認する術はない。実際には歴史に名を残すかもしれない行為や行動こそがその人の「やりたいこと」なのだ。
与えられた命を全うするまで詰め込んで生きて行こうと思っている。やりたいことだけを。やりたいことをやりすぎて満足して死んでいきたいと思う。それがこの機会を直接与えてくれた両親と間接的に与えてくれた全ての人や物に対する礼儀である。
震災がなかったらこんな考え方になっていなかったのかそうでないかはわからない。ただ震災も病気も不慮の事故も全ては自分の意思とは関係のないところで起こるのだ。
運命だとか偶然だとか必然だとか考える時間はない。
今日もやりたいこととやりたくないことを考えながら生きて行く。
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