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嫌な流行り方

アルピーのラジオが好きな人なら、一人残らず好きなバンド。

10年以上前に書かれた曲が今TikTokで流行っているというのを、そのバンドのYoutubeの開放されて日が経っていないコメント欄で知った。

すげぇ嫌だな、と思った。

僕がnoteでフォローしている人は必然的にラジオリスナーだったりするので、やっぱりそのバンドが好きな方々が多い。

僕なんかよりもずっとずっと昔からラジオもそのバンドも知ってて何度も何度もライブに足を運んで、実際に時代をそのバンドとともに歩んできた人たちや、アルバムについてめちゃくちゃおもしろい解釈をしてくれる人たち。

そんな人たちのnoteを読みながら、ラジオの過去回を聞く時間が大好きだ。

もちろん、お姉さんの本も読んだ。

あと僕は東北のある被災地の出身で当時は5歳だったので、実際に足を運んで聞きに行ったわけではないが、その人は被災地を訪れてくれていたことをあとから知ってもっと好きになった。

暗い学生時代を送り、ラジオにたどり着き、その中で出会ったバンドだ。

いまだに悩んでいる、「俺には親友と呼べる人はいないのではないか」とか。


で、俺はそのバンドがTikTokで流行ったことに対して嫌だなと感じたのだが、なんで嫌に感じたのかを口で、言葉で説明しろって言われると意外と難しいなと思ったのでそれを実際に考えてみて、文字として残しておきたいと思う。



①「好き」が同列に扱われる

例えば、「好きなバンドは?」って聞かれたときにそのバンドの名前を答えたときの、その答えが示す人柄の捉えられ方が変わるっていうか。

以前なら
・絶対に悪いやつじゃない
・ラジオリスナーの可能性大

TikTokで流行ったあと
・あー最近流行ってるよねそのバンド

みたいな。

あとひとえにそのバンドが好きと言っても、
・ずっと前から、結成当初から好き
・ラジオきっかけで好き
・音楽好きで好き
・ふと出会って好き

・TikTokで流行ってるから好き

みたいに色んな種類の人が含有されてるのにこう、そこが「そのバンドが好き」というグループで一緒くたにされるのが嫌というか。


TikTok好んで見るようなやつなんて、一番と言って良いぐらい信用できないと思ってます。

たとえば、めちゃくちゃに走ってる爺さんがいたとして、

・フォレスト・ガンプじゃないんだから
・こんなに走ってたら心筋虚血で死んじゃうんよ

って2つのツッコミがあったとして、ここで「フォレスト・ガンプってなんだろう?調べてみよう」ってなれば、明らかに上のツッコミのほうがおもしろいじゃないですか。

でも、TikTok見てる層って、「はぁ?フォレスト・ガンプとか知らねぇし!知らねぇからおもしろくねぇし!なぁ、そうだよな!コメ欄のみんな!世間のみんな!」っていう層じゃないですか。

はるかにおもしろい適した答えがあるのに、既知の知識の範囲でしかおもしろいかどうかを判断する気がないし、世間での常識がその人のすべての基準をつかさどっていて、自分の頭で物事が良いことなのか、悪いことなのか、良い側面もあるけど悪い側面もあることなのかを考えることも放棄してるような人たちじゃないですか。

もっとおもしろいものがあるのに、自分で調べることもせず受動することしかできない人たちじゃないですか。


じゃあたとえば、そんなTikTok大好きな人が自分の友達だったとして、自分が世間に抗うような構図になったときに、自分の側についてくれると思いますか?自分の側につかないにしても、なぜそのような構図に陥ったかまで思慮を巡らせてくれると思いますか?


世間体と既知の知識の中でしか判断できない彼らが、真の意味でそのバンドについて考える時間を持つことがあるでしょうか。


苦しんで苦しんでそのバンドに出会って救ってもらった「好き」と流行っててとりあえずそのバンドの名前出しときゃ無難だから「好き」が同列なのが僕が気に食わない一つの理由かなと思いました。


②歌そのものを聞いてない


歌詞が自身がかなり深く悩んでるとこについての一つの答えを示してくれているとか、過去青春時代に行ったフェスでその楽曲がそのひと夏どころか、自身の青春そのものに色を付けてくれたとか、好きになるきっかけって100人いれば100人にあると思います。

それ対して、TikTokで流行るっていうのは、歌詞もまともに聞かずに、周りが好きなうちだけ好きで、ただただその曲がつくられるまでの過程も想いも全部無視して、その曲を殺すことに他ならないことだと思います。

勝手にそのアーティストを一発屋かのように仕立て上げるような側面すらあるかと思います。

大衆と曲との受動的な出会い方は、曲そのものとかその曲が彩ってきた時代を殺しかねないと思います。


③終わりに

最初から読み直してみたら語尾がめちゃくちゃでした。

でも、それだけ早く自分の気持ちや動揺を整理したかったというか、モヤモヤとした気持ちや感覚的なものを言葉にしたかったのです。

深夜ラジオやそこにまつわるあれこれが大好きなのでなにかとショックでした。

少し自分のことを話すと、小学生のときの親友は中学の時に転校しました。

親同士もそんなに面識があったわけでもなく、スマホを中一から持てる世代でもなかったので、そこから連絡はとれてません。

そこそこの運動部に属していたので今は痩せていますが、彼が転校してから僕は中一のときにデブだのブスだの言われることがひどく辛く感じました。彼がいたときは僕の味方でいてくれる人がいるから辛くもなんともありませんでした。自分より強大な存在に抗う中で背中を預けられる人が一人もいない辛さをそこで初めて知りました。

彼はサッカーがめちゃくちゃ上手く、学級委員長、僕は生徒会副会長でした。

お互い好きなジャンプの漫画はオレゴラッソというサッカー漫画でした。

きんたの大冒険を何個も何個も作りました。

彼はカルチョビットという誰もやってないサッカーゲームをやっていました。

彼の好きな芸人はゴー☆ジャス、僕の好きな芸人は笑い飯でした。


僕は転校してしまった彼に死ぬ前にいつか一度会いたいなという思いがあります。

いまさら会っても迷惑かなとか、どんな感じになってんのかなとか色んなことを考えますが、一度だけでも会っておきたいのです。


青春時代の7年間会えてないというのは、すごく大きいと思いますが、不思議とまた会ったときも少年時代と同じように談笑できるような気がします。

まぁ、TikTok大好き人間になってたらなってたでそれはそれで若干頭を抱えます笑


友よ ただ君のための僕で在りたかったんだ
君のように美しく在りたかったんだ

「Peace」/andymori


特にこの曲には数え切れないほど救われています。


てか書いてて思ったんですけど、ちょっとしたスタンド・バイ・ミーみたいですね。

俺の人生にとってのリヴァー・フェニックスははたして存在するのでしょうか。

それとも案外もう身近にいるような人がリヴァー・フェニックスになり得るのでしょうか。


TikTokはクソ!



以上、加瀬亮でした。