笑いの壺

ツボ。
それは自身の内部に位置し、押すことで水準以上の快感を覚えることができる部分を意味する。
そして、もっとも留意すべきは、その壺の感度や深さは千差万別だという点だ。

「◯◯君、面白いことやって~~!」
人は身勝手に、そして無意識に、笑いの拷問を他人に仕掛ける。前述の文言はその類いにして相違無い。拷問レベルは特高警察並みで軽く致死だ。何故前科としてカウントされないのか甚だ疑問に感じる。私が中指を立てながらこう強く否定するのには理由がある。実は小2の頃にこれを体験したことがあるのだ(中、高は影を潜めていた模様)。
その時は、小さい頭で熟考した後コマネチをしながらミッキーマウスの声で「ハハッ!スティッチだよ!」と口走り、結果見事にその場は静寂に包まれ、時間は私を置き去りにした。

私は古傷をペロペロ舐め回しながらこう思う。

「私は面白いことをした。しかし、私と彼らとで壺の位置が違った。だから私のネタはウケなかったのだ。私は悪くない。私は悪くない……」

そう、私の笑いの壺が、あっさり塩ラーメンにそこら辺の公園に落ちているドングリを添えるようなシュール系なのに対し、みんなの壺は、こってり豚骨家系ラーメンにニンニク卵黄を溶かすような王道系なのだ。恐らく。

この齟齬は文章作成時とその感想によく見られる。私は救われないヲタクの集いしツイッターの一民なのだがこれが頻繁に起こる。(私の面白さに関する技術面は問わない。)
私は底辺ツイッタラーなので、5いいね来ると反応が良いものと見なす。

ツイッターで壺の違いを認識しよう


個人的に好きなネタ。
私は、文字をいじるネタが面白いと感じるが、周りからするとあまり面白くなかった模様。膨大なネットの中に短文がちょこんと存在しているのも面白くない?ガチでこれ思い付いたときウチ天才かと思ったんだけど。
又、私の悪癖で笑わせるのと一緒に、知識をひけらかしたくなってしまう。それで印象が悪くなって結果として見てくれなくなったりする。うんちぶり。


日常の話でここまで行ったのは初だろう。あの日は結構な雨が降っていたのだが自分の
傘が家の何処にもなく、やむを得ずボロい傘を玄関の隅から取り出してその日を凌ごうとした。錆びていたはいたが、使えそうなので傘を開けると、後方からの風にあおられて敢えなく大破した。その時の1枚である。悲愴感漂っていてそれなりに面白い。反応もよかった。


たまに見るト書タイプのネタツイ。口内炎が痛すぎて早く引っ込んでほしいと思い書いたものである。変な話、自分としては面白くないと思っていた。しかし、最後の文で掛詞になる感じが誰かには刺さるのではないかと思いツイートした。結果、反応がよかった。

笑いの壺を押してくれ。頼む。

現日本には、シュール系の笑いが枯渇している。世間では、滑る=死を社会通念として強要している。なあ、自然に起きるシュールな笑いを楽しませろ!!俺のネタで笑え!!
頼むわ!!!