自分が嫌い、という感情

最近はエッセイや日記本を読み漁っていて、
言葉って最大公約数的な意味を伝達するけど、その人個人の身体を伴った経験や感覚まではどうやっても伝達することができない、だからこそその伝わらなさや分からなさを前提としたときに初めて相手を理解することのスタートラインに立てるんだろうな~と言うことを感じている。

そしてわたしが気になっているのは、その感覚が楽しい嬉しいとかいうポジティブなものではなかったとき。
つらさ苦しさは当人にしか分からなく、時には本人にさえなぜ苦しいのか分からないこともある。分からんからいいわ、と理解することを拒否するのは、他者に対してもできてしまうんだけど、特につらいのは自分に対してもそうできてしまうところ。
後者がしんどいのは、他者であれば理解することを放棄したら程度の差はあれどそこにリソースを割くことは少なくなって負担は減るけど、自分を理解することを放棄したら、ずっとぼんやりと苦しいまんまなんである。ただ、自分の身体にたゆたうよく分からない苦しみを理解しようと向き合うのは、おそらくもっと苦しいんである。
そのときにそれでも向き合っていたいと思えるのはなぜか、こんな身体いらんわと投げ出さないでいられるのはなぜか。

わたしもかつて、身体をなくしてしまった方が楽、そんな状態にあるひと、ぎりぎり生きているひとの存在が身近に感じられたことがあった。
自分のことが大嫌いで、どこにいても自分はここにいていいんだろうかと常に自分を責めているような気持ち。自分はここにいてはいけないのだと、当時は理由も分からないのにそう感じていたし、どうやらそう感じているらしいとメタ認知できるようになったのもごく最近のことだった。それまでは誰か自分ではない人のふりをしなければという強迫観念のようなものだけを感じていて、それによって自分がつらいのだということも認識できずにいた。
それに、どんなちゃらんぽらんでもいいんやと頭では思っていても、やっぱり小さい頃から内面化した自分を否定する声はなかなか消えてはくれなくて。
こんな自分で生きていくなんてしんどすぎる、から、現実逃避して解離して、身体と現実から逃げようとしていた

そこに向き合えるようになったのは、他者からの言葉だった。自分の存在が恥ずかしくて、そんな自分がつらいから、みないようにして、代わりに理性を発達させて感情にふれないように頭でっかちになってしまったんです、ということ
ほぼ初めましてでこれからよろしくお願いしますっていう関係性の人だったんだけど、酔っていて普段なら恥ずかしくて言えないこともぺらぺら喋っていた
そしてその人は、わたしのことばをかみ砕いて受け止めてくれたうえで、あんたはそのままでええんやで、でももっといろんなことやってみたらええんちゃう、ここでならやってええで、と言ってくれた、そんなでかい一言をいただいてしまったんである

こういってくれたおかげで、自分を責める気持ちがどこから(誰から)発生しているのか客観視していくことができるようになった

だからなんだということもないが

やっぱり人間は誰かに受け止めてもらって初めて何かと主体的に向き合っていくことができるようになるんだろうなあと
無条件の愛ってやつ、幼いころにたっぷり享受することができて居たらよかったけど、いまのわたしをみたらそうではなかったらしいことくらい誰にでもわかる
それゆえに、大人になっても、無条件の愛を求めてしまう幼い部分が自分のなかにある。
さらにめんどくさいことに、今まで無条件の愛を与えられてこなかったため、好いてくれる人と出会っても、そんな愛どうせ条件付きなんやろすぐ飽きるやろ、と疑いにかかってしまい、何なら私という存在なんかを好きになる相手まで疑ってしまう始末。難儀。
だからこそ、思わぬところから、自分の存在を全肯定してくれたひとがいたということは、私の人生においてとっても大きなギフトなんだろうなと思う

なのでわたしもできるだけ懐の深い人間でありたいし、全肯定botを自分の心で育て、他人の心にも一緒に育てられるような人間でありたいんじゃ

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