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古代中国の宰相0003 

管仲に次ぐ斉国の宰相 晏嬰

 管仲亡き後春秋時代の斉の国の名宰相として、登場してくるのが晏嬰です。晏嬰は管仲ほど有名な宰相ではないかもしれません。宮城谷昌光さんが晏嬰の父君にあたる晏弱という人物をとりあげていました。じつはその内容はあまりよく覚えていませんが、名前に 「弱い」という字を当てることが意外に思われたものです。たしか宮城谷昌光さん晏弱の弱は「弓」に関連したものであり、「弱い」というニュアンスはあまりないというご意見でした。晏嬰は小柄な人物だったようですが、その父は大柄だったという設定だったと思います。
 晏嬰は斉の3代の君主に仕え、景公のときには宰相をつとめました。晏嬰の体格は前述のように小柄であったようですが、精神的には大きな勇気を備えて、つねに君主を諌め、国民には絶大な人気を誇っていたといわれています。しかも自身の生活はきわめて質素であり、肉などを食すことはまれであったらしいのです。
 晏嬰が補佐した斉国の3代の君主のうちで、最初に仕えた霊公の時、町の女性の間で男装をすることが流行りました。、霊公はこれを止めさせたいと思って禁令を出したのですが、もともとこの流行は霊公の妃から始まったものであり、霊公はというと相変わらず妃には男装をさせていたので、流行は収まってくれませんでした。そこで晏嬰が助言しました。
 「閣下のやっている事は牛の頭を看板に使って馬の肉を売っているようなものです。宮廷で禁止すればすぐに流行は終わります。」と諫言し、その通りにすると流行は収まってくれました。
 斉が晋との戦いで敗北した時には、まだ戦える状況であったにもかかわらず霊公が逃亡しようとしたので、これを必死で止めて諌めました。
「閣下には勇気がないのですね。まだ戦えるのにどうして逃げるのですか」
 その際、霊公の袖を晏嬰が引きちぎってしまい、霊公がその無礼に怒って思わず剣に手をかけたのですが、晏嬰は言います。
 「私を斬り捨てる勇気を持っているなら、その勇気で敵と戦って下さい。」霊公はこれに対しては、「お前を斬り捨てる勇気がないから逃げるのだ。」といいすてて、首都臨淄へ逃げ帰ってしまったそうです。
 次代の荘公の時の紀元前551年には、晋の卿(大臣格の貴族)の欒盈(らんえい)が士匄(范匄)との権力争いに敗れて、斉へ亡命してきた。荘公はこれを歓迎して復讐に手を貸そうとします。晏嬰は反対しましたが受け入れられませんでした。荘公は度々の晏嬰の諫言を疎ましく思うようになり、それを感じとった晏嬰は職を辞して田舎にひきこもり、畑を耕して日を送ることにしました。
 このように晏嬰を遠ざけていた荘公は、じつは宰相・崔杼の妻と密通していたのです。それが判明して、怒った崔杼は自邸に荘公をおびき寄せ、私兵をもって殺してしまいました。これを聞いた晏嬰は急いで駆けつけましたが、もし荘公を悼む様子を見せれば崔杼によって殺され、崔杼におもねれば不忠の臣としての悪名を受けることになってしまいます。晏嬰は「君主が社稷のために死んだのならば私も死のう。君主が社稷のために亡命するのなら私もお供しよう。しかし君主の行動が私事のためならば近臣(直臣)以外はお供する理由はない。」と言って、型通りの哭礼だけを行って帰ってしまいました。崔杼の配下は晏嬰も捕え殺そうとしましたが、崔杼は人民に人気がある晏嬰を殺すのはまずいと考え、これを止めさせたそうです。
 その後、崔杼は慶封と共に景公を擁立し、反対派を圧迫するために皆を集めて「崔・慶に組しない者は殺す。」と宣言しました。しかし晏嬰はこれに従わず「君主に忠誠を尽くし、社稷のためになる者に従う。」と言い返します。
 崔杼と慶封は政権を握りましたが、崔杼はその後慶封により殺され、その慶封も陳無宇や鮑氏(鮑叔の子孫)・高氏・欒氏に攻められて滅びました。この時にどちらの陣営も景公を手に入れて正当を主張しようとしたわけですが、晏嬰は彼らの戦いを私闘として景公を守り通しました。
 その後、景公に信任されて晏嬰が宰相の地位に上り、そのときに田氏一門の司馬穰苴を推薦しました。
 晏嬰は「穰苴は田氏の妾腹の出ですが、その文徳は兵士を引き付け、その武徳は敵を威圧します。君よ、司馬穰苴を試してみてください。」といい、景公は、司馬穰苴と兵法について語り、いよいよ司馬穰苴が頼りになりそうであるとわかり、将軍に任じようとしました。しかし司馬穰苴は「私は、もともと低い地位にあり、将軍に任じてくださっても下は私を侮りましょう。そこで、君の寵臣でその上輿望ある者を顧問としてお貸し下さい」と言い、景公はそれを許し、荘賈をその任にあたらせたのです。
 司馬穰苴と荘賈は、「明日、正午に軍門にて」と約束してわかれました。しかし荘賈は「高貴で軍を統率するのもわしだ」と思い込み、親戚や高官と送別の宴を設け、翌日の正午に姿を現さなかったので。司馬穰苴は、荘賈が来ない間に、軍を整え、軍規を全軍に示しました。日も暮れてやっと荘賈が来た。司馬穰苴は、どうして遅れたのか理由を聞きました。すると、荘賈は「親戚や高官が送別の宴を催してくれたため遅くなった」と言いました。
 これを聞いた司馬穰苴は「将軍は、一旦出撃を命じられれば家族のことを忘れ、軍中にあすっては親戚を忘れ、戦場にあっては自らの安全を忘れる、と言われている。今、敵軍は深々とわが国に侵入し、国内は騒然とし、兵は身を風雨に曝して戦い、君さえも心配のあまり食事も喉を通らず、夜も眠れないほどであるのに、送別の宴ごときで出陣に遅れるとは何事か!!」と激怒し、軍法に沿って荘賈を処刑しようとしました。恐れた荘賈は景公に使者を出して許してもらおうとしたのですが、その使者が帰ってくる前に司馬穰苴は荘賈を処刑してしまいました。このことで兵士は引き締まり、軍規は厳粛に為りました。
 その後、景公からの使者が帰ってきて荘賈を許すようにと言いましたが、「将、軍に在っては、君令も受けざる所有り」(将軍が軍中にいる時はたとえ主君の命令であろうとも受けない事がある)と言う有名な言葉を残し、使者を追い払いました。
 司馬穰苴は、軍中にあって、常に兵士と行動し、食事も同じものを食べ、弱い者にも優しく接しました。その結果、司馬穰苴は全軍に信頼され、病人までも出陣したいと願い出ました。この一連のことを聞いた晋・燕の軍は撤退しはじめ、司馬穰苴はこれを追撃し、失地をすべて回復しました。凱旋した司馬穰苴に対して景公は司馬穰苴を大司馬に任命しました。
 景公のとして内政の充実につとめただけではなく、外交面でも、当時の大国である、晋や楚の要人や君主とわたりあって、斉の国の立場を保ちました。
 当時は晋と楚とが2大国として君臨して、斉や秦はそれにつぐ存在であったようです。
 晋の名臣であった叔向とはとてもウマがあったらしく、腹をわって意見交換もできたようです。じっさいに自分で晋への使いとしてかの地に行った時には、かれに、「斉の国の6豪族のうちで田氏(陳氏)は民に対して恵みを与えて人気を取っているので、いずれ斉の国は田氏に取って代わられるかもしれない」と言ったらしい。この予言はその100年以上後になって実現することになりました。
 楚の国へ使いで行ったときには、傲慢という評判の楚王に再三ひどいことをいわれたにもかかわらず、そのたびに見事に切り返して楚王をへこましたため、晏嬰の名声がますます高まる結果になりました。
 使節として楚へ行った際に、楚の霊王は斉を侮り、晏嬰を辱めんとした。楚の城門に来た晏嬰がひどい小男なのを見て、楚の者は大門の横の狭い潜り戸に晏嬰を案内しました。晏嬰は「犬が入る門で他国の使節を迎えるのは、犬の国のすることであろう。 自分は今日、使節として来た。楚国は私を、この戸から入らせてよいのか」と言いました。そこで楚の者は、大門を開いて晏嬰を入らせました。
 王に会見すると、王は貧相な晏嬰を見て「いったい、斉には人がいないのか」と言いました。晏嬰は答えます。「(斉の)臨淄は街路300余り、人々が袖を広げれば日も遮られ、人々が汗をふるうと雨となり、肩と肩、踵と踵がぶつかるほどに人がいます。人がいないことがありましょうか」
 王「では何故、貴殿のような者を使節によこしたのか」。晏嬰「斉が使節を任ずるには適性により、賢王のもとには賢者を、不肖の王侯には不肖の者を使節に遣わします。 自分は最も不肖なる者ゆえ、楚国に使節として使わされました」と答えました。
また会見のさなか、役人が縛られた者を連れてきた。
 また会見のさなか、役人が縛られた者を連れてきました。王は「それは何者か」と聞きました。役人は「斉人です」と答えました。王はまた「何をしたのか」と聞きました。役人は「泥棒です」と答えました。王は晏嬰に向かい「斉の者は盗みが性分なのかね」と聞いた。晏嬰は、「江南に橘という樹があります。これを江北に植えると橘と為らずして、棘のある枳と為ります。これは土と水のためです。 斉人は斉に居りては盗まず、その良民が楚に来たれば盗みをいたします。何故でしょうか? 楚の風土のせいでございましょう」。 霊王「聖人に戯れんとして、却って自ら恥をかいたか」と苦笑いしました(故事成語「南橘北枳」の語源)[4]。
 晏嬰が亡くなったときには、君主の景公の悲しみはたいへんなものであったといわれています。なお有名な孔子とその弟子たちも斉を訪問したことがありました。晏嬰は孔子とはあまり相性がよくなかったらしく、仕官を希望した孔子の採用には、反対の立場をとりました。孔子を嫌った理由は不明ですが、思想的にも形式主義の儒教と現実主義の晏嬰の政治思想とが合わなかったのかもしれませんし、孔子が長身で容貌魁偉な人であったことも、小柄な晏嬰としては気に食わなかったというようなこともありえたでしょう。


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