古代中国の宰相・将軍たち0002
斉国の宰相の代表 管仲
斉の国の宰相には、春秋時代の斉の桓公の補佐をして、国力を充実させ、春秋五覇の第一に挙げられるほどにした、管仲が何といってもその代表者です。管仲は歴史上で最高の宰相の一人としての誉れ高く、その存命中は常に管仲の君主である桓公の信頼がゆるぎませんでした。
菅仲はその親友の鮑叔とともに斉の国に仕官して、国王のあとつぎが公子糾と小白の二人の候補にしぼられたときにも、管仲は公子糾を、鮑叔は小白を補佐しました。結局小白が即位して、斉の桓公となりました。そのときに先に斉の国に到着できた方が君主になるという約束であったため、弓の名手であった管仲は小白をめがけて射るのですが、命中した矢が小白の懐中の何かのものでブロックされ小白も致命的であったふりをして管仲をあざむいて先に斉の国に到着します。
公子糾と管仲とはしかたなく、魯の国に避難しましたが、斉の軍隊が魯国を攻撃して、ひきあげる条件として、公子糾を殺し、管仲をひきわたすようにいってきました。
このとき桓公を補佐していた鮑叔が、「閣下が斉一国をおさめるだけでご満足であれば、この鮑叔と高傒の二人でことたりますが、諸侯を従えて覇をとなえるおつもりなら、管仲を宰相にすべきです」と小白(斉の桓公)に助言します。
鮑叔と管仲とは素晴らしい無二の親友同士でした。鮑叔と管仲が金儲けに成功したときに管仲は多く分け前をとりましたが鮑叔は文句を言いませんでした。管仲がとても貧乏だったことを知っていたからです。敗走するときに管仲が一目散に逃げてもそれを非難しませんでした。管仲には老母がいたことを知っていたからです。管仲はのちに「鮑叔こそ自分のことを最もよくわかってくれた人物です」と述懐しています。
小白(桓公)もなるほどと考えて、いままでの敵対関係を水に流して管仲を召抱えようとかんがえました。そこで管仲を引き渡すように魯国と交渉することになります。魯国はこれに応じて、公子糾は斬首、管仲を拘束して斉軍にひきわたしました。魯国の賢人は、斉は菅仲を処刑するつもりはないから、ひきわたさずに殺すべきだと主張しましたが、斉軍をおそれた魯国の君主は斉のいうとおりにしないとまたなにをされるかわからないと心配して、管仲を引き渡しました。
さて、斉の国に戻された管仲は、拘束衣をとかれて、桓公に面会することになります。そこで、内政の充実と規律を徹底させて、国をリッチにすることがまず肝腎であることを説いて、ただちに宰相に任命されます。
鮑叔は管仲の下で補佐役にまわり、その右腕として存分にはたらくことになります。
理解ある君主と信頼できる右腕の補佐役に恵まれた管仲は、斉の国の古い制度を刷新して、物価の安定と水産業と農業などの産業を活性化しました。これによって、消費の伸びと商業の発達とがもたらされ、同時に規律を厳格に徹底させる政策をとって、国の法と秩序が安定しました。こうして国力の充実した斉の勢力は、桓公をして春秋五覇の第一に挙げられるまでになりました。その間にも傲慢になりがちな桓公を管仲がつねにいさめており、管仲が他界するまでは斉の国力は保たれていました。管仲は全ての事業にすぐれた業績をあげましたが、特に経済政策においては抜群の政治家であったようです。
いよいよ管仲が他界するという段になって、桓公は君主の補佐役の人選について管仲の助言をあおぎますが、このとき管仲から「この3人はおそばにちかづけてはいけません」といわれていた、まさにその3人の奸臣を管仲の没後に近づけてしまいます。桓公の死体にはウジや腐敗が生じ、生前の桓公からはとても想像できないような最期をむかえる結果となってしまうのでした。こうして桓公の死後に斉の国は混乱することになります。
斉の桓公は春秋五覇の第一に挙げられるすぐれた君主ですが、その人物が英明であるというよりは、すぐれた人物を信頼して宰相として重用したことがその長所だったようです。
管仲の考え方のおおもとは「衣食 イショク 足 りて 礼節 レイセツ を 知る。つまり、衣服や食糧といった生きるために必要なものが十分にあるようになって初めて、礼儀や節度といった、社会の秩序を保つための作法・行動を期待することができるようになるものである」ということがあったように思われます。そのため経済政策を重視したわけです。
今日の日本の国では、斉の桓公にあたる君主は天皇陛下で、管仲のような宰相にあたるのが岸田首相ということになるのかもしれません。そうなると宰相としての岸田首相は落第点をもらうことになりそうですね。
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