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古代中国の宰相と将軍たち0010

申不害 主にウィキペディアより

 韓は、戦国七雄で最も弱小な国であった。
その版図は、周都洛陽を保庇するような形をしており、いわば中華の中心に位置し、西の秦、南の楚、北の魏などとの争いが絶えなかった。
 韓人といえば、戦国時代末期に『韓非子』を著した韓非
韓の滅亡後に劉邦の軍師として帷幄で鬼才を発揮した張良
が脳裡に浮かぶものの、盛時ですら名君はおろか目ぼしい名臣や名将はあらわれなかった。
 戦国七雄で真っ先に秦に滅ぼされたのも、もっともといえよう。
 それでも、秦の孝公が商鞅を擢用して富国強兵を果たしたころ、韓も富国強兵を成し遂げた。
ときの韓の君主は、昭侯である。
かれは法家の思想家であった申不害を宰相に抜擢し、韓を興隆させた賢君であった。

 韓の公室は、紀元前八世紀に晋の君主であった穆侯の子で、
曲沃に封じられた桓叔(成師)の庶子である韓万が韓原に封じられたことにはじまる。
 韓万は、甥である武公(文公重耳の祖父)の御者になった。
以降、かれの子孫は代々晋の大夫となり、食邑の名を採り、韓氏と称するようになった。
 晋が栄えるにつれて、韓氏の勢力も大きくなった。
紀元前六世紀に晋の最後の名君と呼ばれた悼公が即位してからは、
韓氏の当主が六卿(大臣)の一つを占めるようになった。
やがて六卿の権力は晋の公室を凌駕し、韓は趙や魏とともに晋を分割して独立し、紀元前四〇三年に周王から諸侯と認定された。
 このとき、韓の首都は陽翟であったが、紀元前三七五年に鄭を滅ぼし、鄭の首都であった新鄭に遷った。
その十六年後に、昭侯は韓の君主になった。

 昭侯元年(紀元前三五八年)、西山で秦に敗れた韓は、翌年には宋に黄池を、魏に朱を攻め取られた。
 この間、昭侯は亡父懿侯の喪に服しており、韓は軍事活動を起こさなかった。
 礼を重んじる風潮が残っていた春秋時代には、喪中にある国を攻めることは忌まれたが、弱肉強食の戦国時代には、服喪期間は他国につけ入られることが多かった。
――強きと和し、弱きと戦う。
 昭侯は喪を除くと「強きと和し、弱きと戦う」という作戦を対外的な基本政策として決めた。
 すなわち、強い秦や楚と結び、弱い周を攻めることで版図を拡げようとしたのである。
 昭侯六年(紀元前三五三年)、韓は東周を伐ち、陵観・邢丘を取った。
 昭侯八年(紀元前三五一年)、昭侯は賤臣のなかから申不害を宰相に抜擢した。申不害は、君主が臣下の生殺与奪の権を握ることで臣下の能力を発揮させる「術」を修めて政治を行った。かれは韓の宰相を十五年間務めたが、国はよく治まり、諸侯も韓に侵攻してこなかった。昭侯も、昭侯十一年(紀元前三四八年)に秦の新都咸陽を訪れるなど、秦との結びつきを強めるよう努めた。

 韓の吏民からすれば、昭侯は仕えるのが難しい君主であったろう。
法治主義を説いた思想書『韓非子』を著した韓非は韓の王族で、昭侯を推奨した。
 『韓非子』で紹介された昭侯の逸話のうち、二つを紹介する。

1 侵官之害

昭侯が、酔って寝ていた。
典冠の者が、昭侯が寒そうにしているのをみて、
「おやおや、風邪をひいてしまいますぞ」
と、気をきかせ、昭侯にそっと衣をかけた。
昭侯は目を覚ますと、衣がかけられていることをうれしくおもい、
「たれが衣をかけてくれたのか」
と、左右にたずねた。
「典冠でございます」
昭侯はその返事を聞いて、
「その者と典衣を罰せよ」
と、命じた。
典衣は、君主の衣服の管理が仕事である。
その者が眠っている昭侯に衣をかけずに放置したことは職務怠慢であり、罪にあたる。
また、典冠は、君主の冠の管理が仕事である。
その者が典衣の職掌である君主の衣を扱ったことは権限踰越であり、罪にあたる。
これについて、韓非は、
――官を侵すの害は、寒きよりもはなはだし(『韓非子』二柄)。
と、述べている。
臣下が自分の職分を踰えるようなことまでしてしまうと、
その弊害は、君主が寒さにさらされることの比ではない、というのである。

2 爪を隠す

 昭侯が爪を切っていた。
その最中、昭侯は切った爪のひとつを掌のなかに隠して握り、
「爪がひとつなくなった」
と、いきなり騒ぎだした。
 そのただならぬ様子に、近臣たちはあわてて付近をくまなくさがした。
「このへんにあるはずじゃ。疾くみつけよ」
昭侯がそう急きたてると、近臣のひとりが、自分の爪を切り、
「ございました」
と、昭侯にさしだした。
それをみて昭侯は、
――近臣とは、こうも不誠実なものなのか。
と、さとったという。

 昭侯二十二年(紀元前三三七年)に、申不害が死去した。これが韓の運命を決めた。
 の前年に秦の孝公が亡くなり、あとを継いだ恵文王に商鞅が誅されたため、昭侯は秦の新政権への対応を決めかねていた。
そのような中、斉の公子田嬰が昭侯を聘問し、
 「秦は、韓と魏から地を削り取って版図をひろげようとしております。韓と魏が争えば、秦を利するだけです。
どうか、臣に両国のあいだを取りもたせていただけませんでしょうか」
と、言葉巧みに斉との同盟をもちかけてきた。
斉と悪い行きがかりがなかったこともあり、昭侯は、
――斉と組むのも悪くない。
と、おもってこれに応じ、斉へむかった。
 会同の地は、史書には東阿とも平阿とも書かれるが、斉国内にあって魏の国境に近い。その邑の南で、昭侯は斉の宣王と魏の恵王と会同をおこなった。昭侯二十三年(紀元前三三六年)のことである。
 この会同は秦を刺戟し、翌年、韓は秦に攻められ、宜陽を抜かれてしまった。
 悪いことは、重なるものであるらしい。
昭侯二十五年(紀元前三三四年)、旱害があった。
それなのに、昭侯は高門の建造を強行した。
楚の大夫屈宜臼がそれを聞き、
「韓君がこの門を出ることはないであろう。時宜を得ないからだ。前年に秦に宜陽を抜かれ、今年は旱害に遭った。そんなときに韓君は民の危急を恤まず、かえって奢侈になった。よいことは何度も続かないが、悪いことは必ず重なるものだ」
と、批判した。
 高門はつぎの年に完成したが、ほどなく昭侯が亡くなった。
屈宜臼のことば通り、昭侯が高門を出ることはなかったのである

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