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古代中国の宰相と将軍たち0027

廉頗・趙奢・李牧

廉 頗(れん ぱ、拼音: Lían Pō、生没年不詳)は、中国戦国時代武将藺相如との関係が「刎頸の交わり」として有名。白起王翦李牧と並ぶ戦国四大名将の一人。

前半生の活躍

紀元前283年、将軍となりを討ち、昔陽を取る。紀元前282年、斉を討ち、陽晋(現在の山東省巨野県)を落とした。この功により上卿に任ぜられ、勇気のあることで諸侯の間で有名となる。

刎頸の交わり

刎頸の交わり」も参照

史記』によれば、当初、趙の総大将として、武功によって数々の功績を得た自分に対し、口先だけの働きで手柄を挙げ、位も自身より上回っている相如との仲は、極めて険悪で、だれかれ構わず己の不満を口にした。その噂を耳にした藺相如は、それ以来、病と称し外出をやめた。

それから何日か経ったある日、家臣の薦めで、相如は馬車で散歩に出かけた。その道中で前方に廉頗の姿を見つけた相如があえて道を変え、廉頗の通り過ぎるのをまってから引き返す、といった事件が起こった。その夜、この振る舞いを見た家臣たちは一堂に会し「相如様の匹夫の様な振る舞い。さらにそれを恥じない相如様の態度には我慢がいきません」といい、辞職を申し出た。すると相如は、「強大なる国が何故わが国を滅ぼそうとしないか解るか?それは、私と廉頗将軍がいるからだ。今、廉頗将軍との間に亀裂が生じれば、それこそ秦の思う壺。私があのような行いをするのは国家のためなのだ」と家臣を説得したが、この話はなぜか宮中に広まり、廉頗は上半身裸の姿で相如を訪ね、自分の不徳と愚かさを恥じ「この愚か者はあなたの大きなお考えを知らず無礼をしてしまった。この荊(いばら)の鞭でこの身をお打ちあれ」と手にしていた鞭を差し出した。相如は、「何を仰せられます、将軍あってこその趙の国です」といった。廉頗は心から心服し、「あなたのためならば、たとえこの頸(くび)を刎ねられても悔いはござらぬ」といい、また相如も「私も将軍のためならば、喜んでこの頸を差し出しましょう」といった。「刎頸の交わり」、「刎頸の友」という言葉はここから生まれた。

老齢での活躍

天下統一をねらう秦は白起を中心に他国への侵略を開始。廉頗と相如が健在であるうちは秦に侵攻されなかった趙も、この頃になると相如は病に倒れ、廉頗も高齢となっていた。

紀元前260年、秦は王齕に趙の上党を陥落させる。廉頗は上党の避難民を救出するために派遣されたが、秦軍の勢いを目の当たりにした廉頗は要塞に籠城。戦いを長期戦に持ち込む。

敵地で長期戦になることに危機感を抱いた秦は一計を案じ、歴戦の猛者である廉頗に代わって、若く経験不足の趙括が総大将になるように仕向けた。この策にまんまとかかった趙の孝成王は、総大将を趙括に交代させる。これを聞いた相如は重病ながらも王宮に出向き、孝成王を諫めたが聴きいれられず、結局趙軍は敗れ、捕虜となった40万の兵士が生き埋めにされた(長平の戦い)。以後、趙は滅亡の一途をたどっていくのであるが、廉頗は老骨に鞭打って戦争に参加した。

紀元前251年、長平の戦いのあと、趙の衰退を見たは趙に軍を侵攻させるが、廉頗は鄗(現在の河北省柏郷県北部)で燕軍を大いに破り、逆に追撃して燕の都のを包囲し、燕から5城を取って和睦した。

また、も廉頗のいる趙には手が出せず、趙の孝成王は廉頗の長年の功績を称えて尉文という邑の地を与えて信平君に封じ、同年に平原君が死去したため空席になっていた相国代行に任命された。

不遇の晩年

紀元前245年、廉頗はに侵攻して繁陽(現在の河北省内黄県)の城を攻め落とした。だが、直後に孝成王が崩御して悼襄王が即位すると、廉頗は悼襄王によって将軍職を罷免させられた[1]。その事を恨んで後任の将軍の楽乗を攻撃して撃破する。これにより廉頗は趙に居られなくなり魏の大梁(現在の河南省開封市北西)へ亡命する。楽乗もまた他国へ亡命してしまう。だが、魏では信任されなかったために大軍を率いる事は無かった。

廉頗のいなくなった趙は、秦王政(後の始皇帝)の下でさらなる強国になろうとしていた秦の格好の標的とされた。そのため、趙は廉頗のもとに使者を送って帰参を許そうと図る。廉頗は年老いても「一飯に斗米、肉十斤、甲を被り馬に上り」[2]といわれるほどに元気な姿を使者に見せて帰参を承知した。だが、廉頗が趙にいた頃から不仲だった奸臣である郭開の謀略で使者が買収されてしまう。そして、趙王が廉頗の様子を伺うと、使者は「三度遺矢」[3]と讒言した。このため、趙王は廉頗が高齢で使いものにならないとして諦めたという。

廉頗は後にに亡命し、将軍に任命されるも功を立てることはなく、寿春で病没した。

人物・評価

  • 非常に大食漢だったと伝えられていて、1(10)の米と10(約2.2㎏)の肉を食ったといわれている。

  • 晩年の廉頗は望郷の念を抱いており、「(合戦をするのであれば)趙の人を使って戦いたい」と述べた。

  • 司馬遷は『史記』で廉頗に対する直接の評を与えていない。だが、廉頗を藺相如と並ぶ斜陽の趙の柱石と見なしていたようであり、藺相如・趙奢李牧と並ぶ名将として列伝を構成している。『蘇子古史』では廉頗を高く評価し、「国家の柱石」と評している。

 趙 奢(ちょう しゃ、生没年不詳)は、中国戦国時代政治家将軍恵文王に仕えて閼与の戦いの軍勢を撃退し、馬服君に封ぜられた。趙括趙牧[1]の父。

 趙奢は元は「田部の吏」と呼ばれる田地の徴税官であった。ある時、税金を払わなかった平原君の家の者を厳しく咎め、訴訟を行って9人を死罪に処した。それを知って激怒した平原君は趙奢を殺そうとしたが、趙奢が「彼らは私腹を肥やしておりました。私は法に則っただけです。法が守られなくては国は繁栄せず、法を軽んじれば国は衰退します。そして王族であるあなたが法を守らなくては、一体誰が守るものでしょうか」と理路整然と反論した事で、逆に平原君にその勇気と見識を認められ、恵文王に推挙されて趙の国税の管理を任される。趙奢は公平に税をかけたために、趙の国民は豊かになり、国庫は充実し、趙の国力は増強した[2]

 紀元前280年、趙奢は将軍としての麦丘を攻め取る戦功を上げ、武人としても着目されるようになる[3]

 紀元前269年、秦は将軍公孫胡昜に命じて趙南部の閼与の地に侵攻する。廉頗楽乗は救援は不可としたが、趙奢は「閼与への道は険しくて狭いので、丁度二匹のネズミが穴の中で1対1で戦うようなものです。将が勇敢な方が勝ちます。」と説き、恵文王はその意見を容れて趙奢を将軍に任じて、閼与への救援に向かわせた。

 趙奢は邯鄲から30里の地に塁壁を築いて進軍を止め、閼与への救援を勧める者を斬った。その一方で秦軍の間諜をもてなして帰すなどして、秦軍の油断を誘う。そしてそれを見計らった所で閼与への救援へと向かい、軍士の許歴の進言を受けて北山の地をいち早く占拠し、秦軍に対して一気に攻撃をかけて秦軍を敗退に追い込んだ。

 趙奢は恵文王からその戦功を大いに称えられ、廉頗や藺相如と同じ地位に昇格し、馬服君に封じられる[2]。秦はこの三人が健在の間は、趙に攻め込む事が出来なかった。

 趙奢の子の趙括は、幼少の頃より兵法を学び時には父 破するほど兵法に通じていたが、趙奢は趙括を評価せず「あれの兵法は口先だけのものだ。戦争とは生死のかかったものであるのに無造作に論じている。趙括が将軍になれば趙を滅ぼす。」とまで言い切り、妻に対しても決して将として用いさせないように、と遺言して亡くなった。しかし、長平の戦いにおいて孝成王は秦の宰相・范雎の策にはまり、司令官の廉頗を更迭して趙括を新たに任命した。だが、机上の兵法家でしかなかった趙括は秦の名将白起にあえなく敗れ戦死し、趙軍は兵士40万人を坑殺されて一気にその勢力を失った。なお、趙括出陣の際に趙括の母は亡夫の言葉に従い、孝成王に対して趙括を将軍に用いないよう懇願した。孝成王がこれを拒否すると、失敗した場合の責任を一族に取らせない事を約束させたために、一族が滅亡する事はなかった[4]

 後漢の成祖光武帝に仕えた将軍馬援蜀漢馬超の馬氏は趙奢の末裔であり、その称号である馬服君の馬をとって氏としたと言われる

 趙の李牧は李 牧(り ぼく、生年不詳 - 紀元前229年)は、中国戦国時代武将。名は(さつ)[1]、字は[2]白起王翦廉頗と並ぶ戦国四大名将の一人。『史記』「廉頗藺相如列伝」において、司馬遷は李牧を「守戦の名将」と位置づけている。

李牧

 の李牧とは武安君・大将軍出生不詳死去紀元前229年
邯鄲拼音Lǐ M牧父李璣子李汨・李弘・李鮮テンプレートを表示

 中国戦国時代武将。名は(さつ)[1]、字は[2]白起王翦廉頗と並ぶ戦国四大名将の一人。『史記』「廉頗藺相如列伝」において、司馬遷は李牧を「守戦の名将」と位置づけている。は代郡雁門郡に駐屯した期間、軍を率いて匈奴を大敗させた。また、肥下の戦い番吾の戦いを大敗させ、武安君に受封された。だが、最終的には讒言を信じた幽繆王によって殺害された。李牧の死後、趙の首都邯鄲(現在の河北省邯鄲市)は秦軍によって陥落し、幽繆王は捕虜となり、趙は滅んんだ。

 元々は趙の北方、代郡・雁門郡に駐屯する国境軍の長官で、国境防衛のために独自の地方軍政を許され、匈奴に対して備える任についていた[3]。警戒を密にして、烽火台を多く設け、間諜を多く放つなどし、士卒を厚遇していた[3]。匈奴の執拗な攻撃に対しては徹底的な防衛・籠城の戦法を採ることで、大きな損害を受けずに安定的に国境を守備していた[3]。兵達には「匈奴が略奪に入ったら、すぐに籠城して安全を確保すること。あえて討って出た者は斬首に処す」と厳命していたからである[3]

 だが、そのやり方は匈奴だけでなく、趙兵にさえも臆病者であると思われてしまうこととなる[3]。趙王は李牧のやり方を不満に思い責めたが、李牧はこれを改めなかったので、任を解かれた[3]

 李牧の後任者は勇敢にも匈奴の侵攻に対して討って出たが、かえって被害が増大し、国境は侵された[3]。そのため、趙王は過ちに気付き、李牧に任を請うたが、李牧は門を閉じて外に出ず、病と称して固辞した[3]。それでも将軍に起用されたので、李牧は「王がどうしても私を将軍にしたければ、前の方針を変えないようにさせて下さい」と言い、これを許された[3]。そして、李牧は元通り、国境防衛の任に復帰することになった[3]

 ある日、匈奴の小隊が偵察に来た時、李牧は数千人を置き去りにして偽装の敗退を行い、わざと家畜を略奪させた[3]。これに味をしめた匈奴の単于が大軍の指揮を執ってやってきたが、李牧は伏兵を置き、左右の遊撃部隊で巧みに挟撃して匈奴軍を討った[3]。結果、匈奴は十余万の騎兵を失うという大敗北に終わった[3]。その後、李牧はさらに襜襤(せんらん)を滅ぼし、東胡を破り、林胡を降したため、単于は敗走し、匈奴はその後十余年は趙の北方を越境して来なくなった[3]

 紀元前243年悼襄王の命でを討ち、武遂方城などに侵攻した[3]。  

 閼与の戦いで秦を破った名将趙奢を亡くし、政治外交で秦に対抗し得た藺相如が病で伏せていた趙は、紀元前260年長平の戦いで秦に大敗し、そののち藺相如も世を去り衰亡の一途をたどっていた。また、紀元前245年に廉頗が楽乗と争い出奔したことから、秦の侵攻が激しくなり、紀元前236年が秦に奪われ[4]紀元前234年には趙将扈輒が指揮を執る軍勢が平陽で敗れて、10万人が犠牲になった(平陽の戦い[3]。そのため、幽繆王は李牧に軍を任せて、反撃に転じることにした。

 紀元前233年、北辺の功を認められた李牧は幽繆王の命により、中央に召還され、大将軍に任じられた[3][5]

 同年、秦が趙の赤麗および宜安を攻めたが、李牧はこれを破り退けた[5]。その際、宜安を攻めた秦将桓齮肥下の戦いで討っている(あるいは敗走させた)[3][6]。この功績により、李牧は武安君に封じられた[5]

 紀元前232年、秦は趙の番吾を攻めたが、李牧は秦軍を再び撃破した(番吾の戦い[5]。さらに、李牧は秦からの国境まで領土を奪還し、その勢力を南に押し返した[3]。当時、秦の攻撃を一時的にでも退けた武将は李牧と項燕のみである。

 紀元前229年、秦王政(後の始皇帝)は趙攻略のため、今度は王翦を将とし、羌瘣楊端和とともに大軍を趙に侵攻させた[7]。そのため、趙は李牧と司馬尚司馬卬の父)に応戦させた。苦戦した秦は李牧を排除するため、奸臣の郭開に賄賂を送り、幽繆王と李牧との離間を画策した[3]。郭開は幽繆王に「李牧と司馬尚が謀反を企てている」と讒言した[3]。また、王母の悼倡后も秦から賄賂を受け取り、幽繆王に讒言をした[8]

 趙の軍事を掌握し功名の高い李牧を内心恐れていた幽繆王はこれを疑い、讒言を聞き入れ、李牧を更迭しようとした[6]。だが、李牧は王命を拒んだため、幽繆王によって密かに捕らえられて誅殺され、司馬尚も解任・更迭された[3][5][6]。戦国策の司空馬に関する記述では韓倉という奸臣の讒言により解任された上に自死したとされている[9]

 李牧の死後、趙軍は趙葱と斉将顔聚が指揮を執ることになったが、3か月後(あるいは5か月後[9])に彼らは王翦に大敗し、大勢の趙兵が殺害された[5][6]。邯鄲は秦軍によって陥落、幽繆王も捕らえられ、趙はついに滅亡した(紀元前228年[10]

 李牧の祖父は李曇。父は李璣。兄は李雲、弟は李霽。また、子に李汨・李弘・李鮮、孫(李汨の子)に李諒・李左車・李仲車がいる

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