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PLAN75を観て


プラン75を見て。

書いてみようか、やめようか、
何度も何度も
スマホを開いては閉じて迷った。

PLAN75
九の市シネマ

 映画鑑賞の後(昨日の午後から)何とも言えず重苦しい思いで会場を出る姿を目にした。 何人ものシニア世代のヒト達の想い「私は邪魔者⁉️」とのつぶやきが聞こえる様だった。苦しくなった。
 表現しようかやめようかと何度も迷った。更に、私の表現力の無さから、適切な訴えができる自信が無い。
私の心のモヤモヤを表わせる自信もない。

 この映画をこの時間帯、この年代の方々が鑑賞するであろうことは、容易に想像出来たはず。なのに、この選択したのか❗️
担当者への『苦情に終わるモノ』或いは、
クレーマーレベルの問題発言なのではないかとも、考えた。
 『映画』と云う、メディアには、その映画の鑑賞中から、人々に、生きる力を与えてくれる作品がある。その映画を観終わった時、勇気づけれたり、希望を貰う事もある。
 
 中には、問題意識を喚起するなど、鑑賞者に様々な受け止め方をされるはずのものてあり、選択権を活かせる人と、選択肢の乏しい中、コレに行き当たってしまったヒトも居るはずだと思えた。
 今回の、PLAN75を九の市シネマで、平日の①10:30〜.②13:30〜の上映企画は、
恐らく多くの人が、鑑賞者は、時間的に自由で、チケットの安さも考えると、シニア世代が中心だろうと予測出来たはず。今回の映画を観た後「取り憑かれた様なモヤモヤ感。何ともやり切れない負の感情」はなんだろう。

  私一人で無く、私の友人という個人単位でも無く、映画鑑賞後の会場を後にする人々の重苦し雰囲気、沈痛な面持ち、少ない会話などを見るにつけ、やはり、ただの個人的な感情では無いと思われる。後味の悪さ。

敢えて、感想を書いて投稿をする事にした。

2時間近い映画を観たあと。
 私の住んでいる地域での公共施設を使った映画鑑賞会のテーマについて。『プラン75』と言うタイトルに、まずほとんどの鑑賞者は、予告編を見る事もなく、何が始まるのか?と云う表情だった。350席を七割を埋めた鑑賞者の多くのシニア世代は、無防備だったと思います。
 どんな映画なのかはわからないまま。午前中の鑑賞者。
(午後は350席がほぼ満席であったと聞いた)
 タイトルから、想像出来ずに居た、多くの鑑賞者は、何が始まるのかわからなかったようでした。ちょっと異様な不思議な雰囲気から始まったPLAN75。
 要は、この老人大国になった日本における社会的問題、そして、その多くの当事者の人たちがこの先『心迷わせるであろうこと』をテーマにした映画でした。
 行政が提案をした(『プラン75』と言う人員削減策、自主的な口減し政策が、国制度化されたモノが、失策だったと云う、荒れ果てた自殺現場で、自死をするヒトが映し出されるところから始まったのだが。

  タイトルの持つ強烈な75とは、ズバリ、会場に集まった多くの人々。後期高齢者へのメッセージなのか⁉️
 この映画をおそらく64歳までの就労年齢の人たちの鑑賞可能な時間帯ではない時を選んで流した意図は?
 上映時間帯から見て、高齢者が対象であると言う時間帯を選択した意図は、何処にあるのか?もし、考えていないと云う様な担当者が、この上映会を設定したとしたなら⁉️
 おそらく当事者年齢の人たちが鑑賞することを十分に配慮すべき内容ではなかったかと思う。

敢えてネタバラシですが。
 75歳から先の自分の人生を自分で選択し、その選択肢の中に自分で姿を選択すると言うプラン75。
 75歳になったら、自分の最期をどうしたいのかを選択する権利が、政策プランになったものだと流された。
 最初のシーンで、ピアノ曲が流れる中、心ざわざわする中、荒れ果てた建物の中での猟銃による自死から始まった実に重いテーマ。
 それこそ、事前学習を必須とする内容なのではないだろうか⁉️中にはこの映画を観て、鬱になるヒトもいるのでは??自分の存在を不適と感じてしまうのでは??

 おそらく作者の意図としてはこうあるべきではないよ。主役の女優の様に、自ら考えて、生き抜くことを選択して欲しいのだとのメッセージであって、欲しい。
 しかし、自身が当事者年代で、身体的ハンディを抱え、精神的にも落ち込んでいる時にたまたま、鑑賞したらどうだろうか?
 私自身、古希を迎える年齢。会場には、私か、或いは、それ以上の年齢人々が大半であった。所謂、後期後期高齢者にとって、このプラン75と言うタイトルの制度化された心理を描写した。この映画の恐ろしさを感じずにはいられなかった。

タイトルから察することができなかった内容については、スタートから異様な始まり方。 
 そのプランの中身が見えれば見えるほど、不気味な『明日は我が身』ではないかと言う不安と不穏な空気が立ち込めるようだった。意気消沈していきつつ映画に飲み込まれていつた文化小劇場と云う公共施設の会場。
 誰一人、話し声も聞かれず、音も立てずに退席する姿。咳払いも憚られ、笑顔も消えたヒト、ヒト。その2時間余りの『映像がやっと終わった』と云う場内の暗重い空気を私自身は、重苦しく受け止めざるを得なかった体験をした。
 様々な思いの人々で上映会場を退場する後姿からは、普段よく見る映画館での安堵感に浸るとか、希望を持ったりとか、また次への足がかりを得た表情だとかをみることはなかった。「映画鑑賞の後の独特の雰囲気」とは随分違っているなと感じた。

 連れ立って映画鑑賞に行こうよと、誘ってくれた友人も重かった〜、と一言。ポツリと口を開いた後、会話がとぎれてしまった。
 しばらくして、やっと『辛い中身だっねえ、なんだか考えさせられちゃった』と言葉少なかった。
 
 翌日、朝早く80代後半の女性の口から、
「実はね〜」と言って、同じ映画を観たのだと話しかけられた。その女性は、はっきりと、こういった。「あの映画を見ると、うつ病みたいになっちゃう人がいるんじゃないかと思ったわ」と。

  私も実は、最近、『ロストケア』を観ている。この時にもよく似た鑑賞後の感覚を持ったことを思い出した。
 映画と言うのは、人の心に恐ろしいほどに影響与えるものだと感じた。         
 例えば、成人青年定年前の年齢の人たちにとっては、社会的な大きな問題として取り上げるべき内容だと思う。これから先の日本の老齢化に対する継承の1つと言うふうに考える捉え方もあるかもしれない。これから先をどうするかと言う検討課題かもしれない。   
 確かにそうだと思う、しかし当事者前後、いわゆる60歳からの老年期。65歳からの完全定年の年代。そして、古希、そして、75歳からの後期高齢者以降の人たちの参加割合がどれぐらいなのか。
誰の為の映画?誰に観せたい内容?を考えたときに、公共的な上映会場で解消するには、少しテーマが重すぎるのではないか⁉️
 鑑賞者の対象年齢を考えてみると、登場人物の受けたPLAN75とは、死への自主的な選択権の押し付けではないのか⁉️と思えた。 
 登場人物(当事者)に感情移入され、年齢が、近ければ近いだけ鑑賞後の感想が重くなるのではないか⁉️
 鑑賞後感想が、非常に沈痛なものになることも考慮すべきではなかったと思えたのだ。 
 何のために、誰をターゲットとして、創られたのか⁉️問いただしたくなった。

 私事、今年から老人会の担当役割が振られ私の住む集合住宅の50%が老齢人口であるとの現実を目の当たりにしたとき。
 老人の仲間づくりの難しさ。老人の活躍の場を作ろうと云うには、余りにも、老人には敬意を、生き方を学ぼうなどなど、老人大国らしきキャッチフレーズが、嘘っぽいと感じた。つい先日の名古屋市老人総会では、なんと、未だに、決算がシャンシャン総会で、締め括られたのを見た時、愕然とした。
この時代に未だ「事なかれ主義」が、まかり通る老人会幹部の在り方に憤りを感じた。

一人のシニア世代の人として、現実問題の山積する中、今後、『どうにもならないという『終わり方』をしたくない。
 未熟者の自らの立場『若輩の新米老人会会長役割』を受け止めきれない心情。
 今回のタイトルから察することができずに鑑賞した映画への後期高齢者と云う当事者向けのタイトルとその中身、この内容なのか⁉️と云う、名古屋市内各区の公共施設を使った映画鑑賞用の選択に、配慮不足を感じたのは、私一人ではない❗️と。
 
 小市民、一市民の苦情に終わるのかもしれない。と、思いつつも、発言せずにはおられなかった。

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