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孤独な天才を救えなかったトレーナーを愛したい

アプリウマ娘のトレーナーが好きです。たったひとりの少女のために人生全てをかけられる存在が好きです。

でも人間だからやっぱり失敗もしてしまう、望む未来に導いてあげられないことだってある。それを回避する力を持ってるのがプレイヤーが操作するトレーナーなんだと思います。ウマ娘が競走馬の魂に導かれているなら、トレーナーはプレイヤーの魂を以ってウマ娘を導いている。

そう、「プレイヤーが操作していないトレーナー」には、こちらの世界の魂が入っていないのです。

運命を変える力を持った存在(以下、とある配信者さんの影響で「特異点」と呼びます)には、競走馬もしくはプレイヤーの魂が宿っている。いくつもの後悔を、失敗を知っているから最良の未来へ向かうための努力ができる。彼らはいわゆる「強くてニューゲーム」状態なわけです。

たとえプレイヤーが育成していないウマ娘でも、周りのライバルたちのお陰で史実を乗り越えられる展開があります。でもその時、担当トレーナーはその姿をどんな気持ちで見つめているのでしょうか?自分には魂がない、特異点にはなれない、それを知った時彼らはどう感じるのでしょうか。

私がそのことを強く考えたきっかけはサクラチヨノオーのシナリオに登場するマルゼンスキーでした。

あのマルゼンは、プレイヤーの魂に出会っていません。それどころか特異点になり得る力も失っているように見えます。「走りたい」と思えなくなってしまった彼女にはもはや何も残っていないのです。他のライバルたちと決定的に違うのは、彼女の競争人生は何も得られないまま既に終わっているという点です。(実際にはまだ引退していませんが、後輩に自分の全てを託そうとしている以上彼女の中では終わったことなのでしょう)

当然のごとく、チヨノオーの育成シナリオにマルゼンのトレーナーは登場しません。彼女を救うのに必要な存在ではないからです。彼女を救うのは競走馬の魂、こちらの世界の絆だから。

でも、そのトレーナーにだって想いはあるのです。マルゼンに走ってほしい、できるだけ楽しく、できるだけ幸せになってほしいと願っていたはずなのです。プレイヤーの魂が宿っていないトレーナーは彼女を導くことができなかったかもしれないけど、責められるべきだとは思いません。

トレーナーは自分が救えなかった、絶望させてしまった担当が救われる瞬間を目の当たりにして何を思ったのでしょうか。もし私なら、自分が許せないくらい悔しい気持ちになるのでしょう。本当ならそれは自分が差し伸べるはずの手だったのに、そこに立つのは自分だったはずなのに。

あの世界でマルゼンのトレーナーにできることは、何か残っているのでしょうか。

ウマ娘は走ります。競うことで生まれる夢が、希望があります。その先はどうでしょう、ゴールしたその先で彼女たちが並ぶことはできません、レースには勝敗というものが常に付きまとうものだから。

そこで並ぶのは誰か?そう、トレーナーです。
一緒に勝利に酔うことも、敗北を糧にすることも、担当トレーナーにだけ許される行為なのです。

チヨノオー視点の物語のゴールは、彼女がマルゼンに勝とうが負けようが関係ありません。彼女が憧れの存在のライバルになれるかどうかが一番大事なことだから、そこは重要視されません。今負けていてもいつか勝てるかもしれない、今は勝てていても今度は…という形で彼女の物語はこれからも続いていきます。

マルゼン視点の物語はどうでしょう?数々の勝利を重ねた末に走ることへの情熱を無くしてしまったマルゼンスキーの物語は、初めてできたライバルに敗北することでゴールを迎えるのではないでしょうか。彼女に寄り添うことが、救うことができなかったトレーナーと共に悔しいと泣くことができたなら、そこで初めてふたりは本当のパートナーになれるのではないでしょうか。

プレイヤーの魂が宿っていないトレーナーは無力かもしれません。それでもウマ娘たちは彼らがいないと走ることができない、ゴールした先で迎えてくれる相手がいなければ生きていけない。たとえ担当を救えなくても、それだけで彼らは価値のある存在なんだと思います。

だから私は、そんなトレーナーを愛したい。