神田川・秘密発見の旅 後編17 建騒動の始まる慌ただしい日々
後編17 伊達騒動が始まる慌ただしい日々
7月19日(晴れ時々曇)。
幕府の下命がくだされると、藩主綱宗に遊興を勧めたとの理由で
以下の4名が成敗された。
綱宗の側近、𨯯遺 渡邊九郎左衛門 目付 坂本八郎左衛門 納戸 畑興左衛門
役不明 宮本又一
8月25日、朝。
雅楽頭邸に立花飛騨守・伊達兵部・太田摂津守・茂庭周防守・片倉小十郎・原田
甲斐が呼ばれ、陸奥守の隠居の跡は実子の亀千代(後の伊達綱村)が継ぐことを
許可するとの下命を受けた。併せて伊達兵部宗勝(政宗の10男)と
田村右京宗良(政宗の孫・忠宗の3男)に亀千代の領分からそれぞれ三万石を
切り取って加増し、亀千代の後見人とする旨が下された(万治三録)。
伊達兵部には一ノ関を、田村右京には名取郡岩沼の、各3万石が与えられたの
だ。(伊達騒動実録)
8月28日、津田平左衛門と柘植平右衛門の2名を御目付として仙台に出向させる
義が申し渡された。ここまで一気呵成にことが運び、
藩内の権力争い、領地争い、裁定への不満、伊達兵部の藩政潜脱と反対派の粛
清、幼君亀千代毒殺未遂、宗勝毒殺露見、雅楽頭邸での原田甲斐の刃傷へと瞬き
も許さない展開で伊達騒動に突き進んでいく。
一方、綱宗は「隠居して若狭守を名乗り、さらに先に行って入道・嘉心と称し、正徳元年6月4日、七十二歳にて卒しぬ」(厳有院殿御實紀)となる。
東京市史は隠居を申しつけられた綱宗のことを以下のように記している。
「かくて綱宗は二十六日に品川の南、大井村の邸に移れり。時に二十一なりき。
隠居願いの事個より秘密なりしかば綱宗の知るべきにあらず。日々小石川の普請場に出で、当日も常の如くにして帰邸して俄に逼塞厳命の上使を受けしなり。まことに寝耳に水とやらむなれば、其の驚きいかばかりなりけむ。此の場合に至るまで放縦に任せて、死をもて諫争するものもなく、如何に秘密なればとて一人の綱宗に告るものなかりしは、また無慚の至りならずや。唯廃黜(はいちゅつ)の際まで非行を諫止せむとせしは在国の国老奥山大学のみにて、廃黜の後上府して綱宗が再勤を幕府に請願せしは田村右京のみなりき」と。
しかし、その奥山・田村の両名さえも綱宗の隠居を求める連判状に署名をしている。また、別な文書(茂庭家記録)では茂庭周防・大条兵庫・片倉小十郎は綱宗に連署で諫言したが聞き入れてもらえず、辞職を願い出たと記録されている。この3名も連判狀には署名をしている。また別の記録では、綱宗は水戸頼房・立花飛騨守・酒井雅楽頭からも注意されていたが、行状は一向に改まらなかったと書かれている。
この辺りが実に入り組んでいて、伊達騒動の真相を不透明にしている。
また、のちに起きる原田甲斐の刃傷事件とお家断絶の措置についても、
反対派が藩権力を掌握した後の事になるから、微妙である。
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