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神田川・秘密発見の旅 後編42 秋葉原の由来と森の石松

後編42 秋葉原の名前の由来、それは静岡県にあった

秋葉原の歩行者天国

 年甲斐もなくセンチメンタルな気分になってしまい、気分転換を迫られた。
 他の何かを考えて見る。

秋葉原という名称は何の疑問もなく地域の呼称と思っていたが、
神田松永町、神田須田町、神田練塀町、神田和泉町、神田佐久間町、神田相生町など神田のつく地名はあっても「秋葉原1丁目」などの地名は存在しないのはどうしてなのか、を考えてみた。こういうときに便利なのはネット検索だね。たちまちその答えが得られてしまった。秋葉原電気街振興会(akiba.or.jp)は電気街の栄枯盛衰について時代背景を添えて手短に、しかも丁寧に説明してあり参考になった。

 「1869(明治2年)の相生町の大火を機に、当時の明治下の東京府は9000坪の日除け地を当地に設置し、翌1870(明治3)年に、遠州(現在の静岡県)から火除けの秋葉大権現を勧請(カンジョウ)し、鎮火神社として祀った。・・・当初は鎮火原と呼ばれていたが、鎮火神社が秋葉神社と改められると「秋葉原(あきばはら、あきばっぱら)」と呼ばれるようになった・・」と。

秋葉原は若者の街
今でも分かりにくいJR秋葉原駅

 これに続く世相の変化や時代の移り変わり、人々の暮らしなどに触れるくだりがあって、この手の解説文にしては楽しく読めた。なかなかの良い読み物になっている。

「そうか、秋葉さんから来ている名前だったのか」急に親しみが湧いてくる。
秋葉信仰は自分の生まれ故郷にも秋葉講があって、毎年秋葉神社に代表3名が部落全員分のお札をもらいに行っていたことが頭に浮かぶ。受け取ったお札は各家庭の台所に貼っていたものだ。

「正一位秋葉神社」と書かれていたように思うが、何せ60年も前のこと、記憶のディテイルはぼやける。我が家が代参の当番になったとき、両親は中学生だった私を名代で送り出した。
 大人2人に囲まれて、代参の旅行(1泊)が始まった。身延線を富士駅まで下り、東海道線に乗り換えて掛川駅で降りた。リーダー格の大人が「掛川で降りるより袋井の方が便利なんだ」と言っていたのを思い出す。その人は前にも来たことがあったのかも知れない。
 袋井駅を出てしばらくしたところに「甲州屋」という名の旅館があって、そこで1泊した。翌朝、早くからバスに乗って、秋葉神社に向かったが、途中で森町を通過した。今こそ聴く人が少ないがその頃はテレビが世に出てくる直前で、ラジオの全盛時代。浪曲は人気の番組だった。広沢虎造という浪曲師は一番人気で、
出し物は「森の石松」。

「♪旅ゆけば~ああ、駿河の国にい、茶の香りい~い。名題なるかな東海道、名所古蹟のおお~いとこおお~おろ。なかでも知られし羽衣の、松と並んでその名を残す。・・・♪♪♪街道一の親分はあああ〜あ・・」

 文句ない名調子。
 今でも真似て唸ることができる。
60年前のことだが、千石船で金比羅山に渡るくだり、石松と都鳥一家とのやりとり、次郎長一家の復讐戦・・・ハラハラ・ドキドキしながら聞いていた。昨日何を食べたか言え、と言われたら、思い出すのが大変だけど、古いことは昨日のことのように鮮明な記憶として残っている。老人の特徴であり、認知機能の特徴でもある。

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