見出し画像

神田川・秘密発見の旅 後編43 森の石松と柳原土手

後編43 森の石松と柳原の土手
石松は遠州・森町の出身。船の中での旅人とのやりとりは
「飲みねえ、飲みねえ、江戸っ子だってね」
「神田の生まれよ」
「嬉しいじゃねえか、寿司食いねえ」
浪曲(広沢虎造)の語りは今でも印象に残っている。

昭和の時代、三波春夫、村田英雄など、浪曲出身の歌手も少なくない。浪曲出身ではないが、水前寺清子や都はるみと言った歌い手は「こぶし」を効かせ演歌を歌っていた。昭和がずいぶんと遠くなった。
 それはともかく、秋葉神社にゆかりの名前が「秋葉原」だったとは。
東京の地名、いや江戸の地名・来歴にはドラマがある。そんなことを考えながら行くと、たちまち和泉橋、美倉橋と移動してしまった。和泉橋を越えた左岸は佐久間河岸、右手は岩本町。岩本町3丁目町会が和泉橋の袂に建てた「江戸開府400年」の建て看板に岩本町の来歴が披露されていた。

美倉橋の欄干
美倉橋を船(神田川)から見る
美倉橋の下を船で通過

 「江戸時代、この界隈を流れる神田川の土手は、柳並木があったことから「柳原土手」と呼ばれていました。・・・江戸時代後半になると商人や職人で町も栄えはじめます。さらに土手の周辺では、古着を扱う露店が集まるようになりました。・・・明治十四年(1881)、現在の岩本町3丁目の一部から神田岩本町の一部にまたがる大市場が開設されます。・・・多いときには四百軒もの古着屋が軒を連ねていたと伝わっています。・・・戦後、この地は「服の街」としてよみがえります。・・・現在、数こそ減ってきましたが、岩本町三丁目をささえ、町の礎を築いてきたのは、こうした繊維業者です」と。

江戸開府以来の岩本町を解説する看板
柳原土手は筋違門から浅草橋までの1.1キロと表記
江戸時代後期、昌平橋から浅草橋まであった柳原土手・・と表記

お気づきの人もいるかもしれないが同じ千代田区の説明看板でも、説明文にほんの少しだが差がある。柳原土手は写真(上)では「筋違門から浅草門までの1.1キロ」となっているが下では「昌平橋から浅草橋の間にあった柳原土手」となっている。こういうことに気がついて悦に入っているのは還暦を過ぎた人の証拠でもある。
(どっちなんだ! どっちでも良い! 両方正解! の声あり)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?