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神田川の秘密 スチュワーデス殺人事件(3)

十七の3 スチュワーデス殺人事件(3)

 「黒い福音」(松本清張)を初めて読んだのは30歳台だったと記憶する。
 それも30代の後半になってからのはずだ。「日本の黒い霧」や「昭和史発掘」はすでに読んでいた。好きな作家を5人あげろと言われたら、松本清張は間違いなくその中に入る。黒い福音は善福寺川のスチュワーデス殺しを題材にしている。全集第13巻を見ると上下段組みの300ページを越す長編小説だ。途中何度か挫折しそうになりながら読んだ記憶がある。今年、正月明けから再読を始めた。

 松本清張の手口は恐ろしいほどに巧妙で、ある神父と日本人女性ヤス子との密会を隣の家に住む中学生を登場させて説明する。この中学生は高校受験の勉強中で、毎晩遅くまで起きていたのだが密会の現場を見たわけではない。中学生はほとばしる好奇心で隣の家の音に聞き耳を立てていた。家の戸が閉まり、鍵のかかる音を聞き、その後に続く泥のような静寂に息をつめて何かを聞き取ろうとする。

 やがて啜り泣くような女の声が、断続して中学生の耳に伝わってくる・・・その声が聞こえるのは女の家の前に牧師のルノーが停まっている晩に限っていた、と清張は物語の初めに語る。

 たった何行かのさりげない文章の中に、聖職者の女犯の匂い、やがて重要な意味をなすであろうルノーの存在、日本人女性の怪しげな住まいなどなど、無意識のうちに読者の深層に情景を染み込ませる。現場を見ていない中学生が眼をギラギラさせ、呼吸まで荒くして妄想をかき立てながらどんな些細な音も聞き漏らすまいとしている姿から、読者の妄想を駆り立てる。見えていないからこそ想像力が働き、それも中学生を通じてのものであれば、現場を(アラガイ)難い淫靡なものに仕立てさせる。しかし、これはあくまでも導入部。事件はカトリック教会、教団を舞台にして砂糖の横流し、密売事件へと展開していく。

 この部分は序章(プロローグ)のようなもので、ステュワーデス殺しをめぐる秘密、愛欲、深い闇の世界へと物語は形を変えて進んでいく。スチュワーデス殺人事件が起きた背景、理不尽な殺しの動機へと物語は展開されていくが、ここまでは小説の第一部。

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