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神田川・秘密発見の旅 後編6 神田川・仙台堀の工事始まる

後編6 神田川・仙台堀工事始まる

 開削して平川の流路を変更しただけでなく、切り離された旧平川の部分、すなわち日比谷入江に向かって流れていた下流部分は流れを堰き止めたうえ、切り離し地点から下へ600メートルにわたって埋め立てをした。埋め立てたその先は江戸城和田蔵門方向へ向かう濠川となった。

「仙台堀」は旧平川の流路を変えた大工事
(大江戸古地図大全より)

 東へと流路を変えられた旧平川(神田川)には谷端川、小石川、石神井川が合流して隅田川に向かうことになるので、ここでも流路整備の工事をしなければならない。伊達政宗の工事以前に流路の変更が施されていた旧石神井川が流れを変えた所は「筋違え」と呼ばれ、後の「筋違え橋」の架かる場所がそれに当たる。

開削された神田山は川を挟んで北側(神田川左岸)は本郷台地、南側(右岸)が駿河台となった。この大工事の詳細は資料がいくつかあって、どの資料も数字が合っているところを見ると発出の元資料が同じだと思われる。伊達治家記録・三十・巻二十八ではないかと推測する。

仙台堀の錦絵(太田記念美術館より)

 この時、政宗は54歳だった。
 政宗はお手伝い普請を買って出たようだと先に書いたが、治家記録が以下のように述べている。
「去る2月21日、江戸において「江戸御二丸大手口升形并ニ石壁御普請ノ義」を仰出られたが、これは前々から政宗が志願していたものであった」と。
 その根拠は政宗自身が柳生又右衛門宗矩に宛てた書状に書かれていると証拠を挙げている。政宗は国許に一時帰国していたが、幕命が発せられるや、江戸に戻ろうとした。そこへ土井大炊助利勝から江戸城普請については政宗自身の参府には及ばず、という書状が届き政宗は名代として重臣・伊達安房守成実を遣わしている。政宗がこの工事をかなり重視していたことが窺える。工事は同年10月に完了した。
(伊達茂実は戦国時代の歴戦の勇者で、伊達家の重臣中の重臣だった)

 さて、工事の体制や費用について触れておきたい。
幕府側:監察責任者として堀奉行に松平正綱 堤奉行に阿部正之を指名している。
 二人とも後に老中になる重要人物で、幕府側もこの工事を重視していたことが分
 かる。
 普請奉行には秀忠の旗本、都築彌左衛門、加々爪民部少輔、阿部四郎五郎正之
仙台藩:普請総奉行、伊達安房守成実 副奉行 大条薩摩守実顆
     諸役 武山修理重信、石川弥平実光ら25名
     普請奉行 二宮善右衛門、片山伊勢、柴山又兵衛
     石奉行 上原次右衛門、笹町彦三郎
     物頭 中村八右衛門

 将軍秀忠は6月10日に工事現場を見回り(台徳院殿御実記)、伊達忠宗、大条実顆を呼んで上意を賜った。工事が完成した後の元和6年11月21日、秀忠は江戸城普請の完成、忠宗の精励に対し「御感ノ旨仰下サル御内書」を政宗に、忠宗には大倶利伽羅広光の腰物を賜った(伊達治家記録 三十)。

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