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神田川・秘密発見の旅 後編10 江戸城は誰が建てたものか?

後編10  正宗、江戸城石垣工事を請け負う・・江戸城は誰が建てたか?

 政宗は普請名代に石母田大膳宗頼を任命、後藤下総近元を副として普請組頭に石母田安頼・豊島正勝を任じて石川民部・伊達安房・伊達武蔵・伊達安芸・白石刑部・片倉小十郎などの重臣家から下奉行、人足を出させ、これらを六組に編成して江戸に向かわせた。

 大膳は2月21日に江戸に到着するとすぐに土井利勝をはじめ老中に挨拶回りをし、29日に普請七組の受け持ち区域を承った。同じ頃、石垣方は使う石の調達に苦心していた。肥後・細川忠利が工事の場所や広さなどを事前に普請奉行に度々打診していることを白峰 旬氏は細川家の記録を精査しながら発表している。公儀所有の石を借りたいという要望も出していて、天下普請に駆り出された各藩の気遣い、苦労が偲ばれると同時に「他藩はともかく、自藩は期日、出来栄えに粗相のないように」と細心の注意を払っていたことが窺える。

 掘方の本格工事が3月9日に開始されると、伊達忠宗はその日から糀町浄土寺(小石川・伝通院裏手)を仮小屋として、毎日普請場を見回った。伝通院は神田山の上にあるし、仙台藩上屋敷は外桜田にあったから、アップダウンは大変だったろう。

神田山の上にある伝通院山門
伝通院本殿を横から撮影

 大猷印殿御実記巻三十によると
「幕府側は大目付柳生但馬守宗矩、作事奉行佐久間伊予守実勝(旗本)、町奉行加々爪民部少輔忠澄(旗本)、堀式部少輔直之(旗本・北町奉行)、普請奉行には朝比奈源六泰勝(旗本・ただし、朝比奈泰勝は寛永10年9月23日に87才で死んでいるというデータがWikipedia に見られる)、書院番は駒井次郎左衛門昌保(旗本)が奉行となった」とある。

 3月7日市谷土橋落成、3月8日糀町・四谷土橋成就。(一番長いところは48間3寸8分(88m)、横幅56間6寸9分(102m)・・・この部分の場所未確認。アドバイスをお願いします)
 JR飯田橋西口を出て右手に江戸城構築の歴史掲示板があり、寛永13年のこの工事について分かりやすい解説をしている。

神田川の高低差、石垣造と掘割の建設の難しさが分かる

「・・・寛永13年には、天下普請で外濠が構築され、江戸の総構えが完成します。この工事は、雉子橋から虎ノ門に至る外濠の総石垣化と升形築造を前田・細川・池田・黒田家など西国外様大名(石垣方六組)、牛込土橋から赤坂土橋にかけての外堀掘作と土類の構築(と堀さらい)を東国大名(堀方七組)が行いました」

 喰い違い土橋から四谷土橋までを館林藩・境原式部、庄内藩・酒井宮内、仙台藩・伊達政宗、高田藩・松平越後守、秋田藩・佐竹修理が担当し、四谷土橋から市谷土橋までを会津藩が担当している(伊達治家記録 巻之三十九)。
 牛込から市谷までは神田川支谷の地形を利用、四谷から麹町は元々台地の尾根が横切っていたので台地を掘り込み、赤坂側の溜池へ結ぶ大工事だった。伊達藩(政宗時代)の御手伝い普請に投下した諸費用が膨大なものであっただろうと推測できる。

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