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神田川・秘密発見の旅 後編14・神田川の工事と伊達騒動は表裏一体だった

後編15 伊達騒動の真相に迫る・・綱宗の行動記録

 少し長くなります・・・。
日記のような綱宗の行動記録を見ながら、仙台堀の工事の進捗を見ていきたい。
綱宗は江戸に生まれ、江戸で育っているから江戸のことは周知していたと思われる。しかし、神田川の工事との関連を見ると、多忙を極めている。後に伊達騒動が始まると綱宗は遊興を非難され断罪されるが、この忙しさは夜遊び、昼遊びに耽流には時間が問題だと思える。以下は公の記録から拾った日程。

3月21日、綱宗、仙台を出発。
  28日、江戸の浜屋敷(寛永18年開設、当初は仙台藩・下屋敷、延宝4年・1   676年から上屋敷となる・・仙台市碑文)に入る。到着するや否や、
    会津中将保科正之・若狭少将酒井忠勝・久世広之・土屋数直・酒井忠直・
    内藤出雲守を訪ね、挨拶している。手土産を持参したのは当然だろう。

4月1日、公儀普請奉行・永井彌右衛門等4人に使者を使わせ鶴1羽、
    鰹節200本、昆布20束、箱入りの樽酒2荷を贈呈し、石奉行3人、
    材木奉行3人、縄竹奉行3人、釘鉸奉行2人、扶持方奉行12人に贈り物
    をした。
    屋敷を借用する衆12人、大工棟梁2人には仙台藩江戸番組(宿直勤務の
    番衆の組)を使者にたて、御大工1人、町棟梁大工4人については御徒組
    を使者として、物品・金銀子を贈った。夜は夜で藩の普請役人(里見十左
    衛門・只木三郎左衛門ら43人、御割役ら3人)に料理をふるまい、
    銀子5枚を渡し、さらに何やら下賜するものがあった。
4月2日、7人に小袖一重、53人に小判2両、1人に銀子5枚、
    5人に金子1歩を渡している。伊達屋敷には工事関係者が続々と顔を出し
    たのだった。
4月3日、参勤御礼に登城。太刀、金馬代、馬一頭、綿100把、献上
   (東藩史稿)。下城するとその足で老中御一門宅を訪問、挨拶回り。
4月4日、紀伊宰相光貞、少将頼純、尾張中納言光義、因幡少将光仲を訪問。

4月6日、蜂屋六左衛門を使者に立て、土屋但馬守数直他幕府の要人に馬あるいは
    蝋燭を手土産として贈呈。    
4月7日、井上筑後守正清(寺社奉行)、太田摂津守資料次へ馬を贈った。
4月8日、神尾備前守元勝(江戸町奉行)、村越長門守吉勝へ蜂屋六左衛門を使者
    として遣わした。
4月9日、徒士目付衆、坊主衆、中口御番人、証人御奉行の家来衆に参勤祝賀とし
    て銀をを渡している。
4月11日、浜屋敷において因幡少将光仲を饗応。
4月13日、片倉小十郎の江戸での乗輿が老中から許可されたので、そのお礼に蜂屋
    六左衛門を使者として老中と島田久太郎・蜷川喜左衛門に遣わす。
4月15日、登城。
4月17日、上野東照宮参拝。
4月20日、上野寛永寺参詣。
4月24日、増上寺参詣。
4月28日、登城。
5月1日、登城。
5月3日、備前少将光政(松平新太郎)宅を訪問し饗を受ける。
     夜は水戸中納言頼房の屋敷を訪問。この日は端午の節句のご祝儀を将軍
     に献上。柳川忠茂等7人を饗応。
5月4日、境野盛久組足軽が小石川の普請現場で喪気、水野忠境屋敷前で自害し
     た。
5月5日、登城。下がって直ちに老中に会い、公儀御同胞坊主衆11人に御帷(垂
     れ幕)をそれぞれに分け与え、
5月7日、老中稲葉正則に公義使を以って使者とし遣わし、
5月9日、普請場に公義使を遣わした。
     公義使は藩と幕府をつなぐ役で普請場で発生した不祥事の始末に特別の
     配慮をしたのではないだろうか。
5月19日、小石川普請始め。市ヶ谷、津久戸、馬場、江戸川、秋山十右衛門宅
     前、吉祥寺仮本屋の各持ち場に分かれて普請が始まった。市ヶ谷には目
     付け里見十左衛門・鈴木六左衛門の他、火の番2人、上奉行2人、
     小奉行8人、日帳付(にっちょうづけ)2人、人足奉行 2人、
     人足500人、足軽10人、医師1人。津久戸には片倉小十郎小屋が設
     置され、目付け剣持八太夫・手塚戸兵衛、火の番1人、上奉行6人、
     小奉行28人、日帳付2人、人足奉行2人、人足1363人、足軽30
     人が配置された。馬場の人足は500人。

     江戸川の人足数は750人。秋山十右衛門屋敷前には人足750人、
     目付け2人、火の番1人、上奉行3人、小奉行13人、日帳付2人、
     人足奉行2人、諸道具奉行2人、御扶持方奉行1人、
     御普請場道奉行2人、車奉行2人、御普請御割奉行1人、
     同御割ノ者5人、医師1人。

      現場本部になっていた吉祥寺本屋敷は目付け2人、火の番1人、
     万事御用人2人、手代4人、万勘定見届役1人、御買物役2人、
     諸道具奉行2人、惣小屋見廻方見届役2人、土舟奉行2人、
     破損役4人、江戸川会所諸道具奉行1人、荷物役1人、横目1人さらに
     公義大工棟梁4人とその配下の大工がそれぞれ3人がいて、
     普請仮小屋の他にも茂庭周防・後藤孫兵衛・真山刑部の専用小屋があっ
     た。藩主綱宗が現場に出御した時に使う専用仮小屋も建てられていた。
    (人足総数3863人、目付けや奉行など125人、医師その他の役職・
     関係者65人、都合4053人で、此の中には馬場と江戸川の役職者数
     が抜けているので他の仮小屋の配置から推測した人数約80人を加味す
     ると4200人近い人数となる)

それとは別に、公義からの資材を請け取る万請取役人として、大工木引請取役1人、釘鉸請取役1人、石奉行2人、材木竹縄請取役3人がいて、御賄い所小屋は水戸屋敷前御橋台会所と江戸川会所の2カ所があって公義御普請奉行、棟梁へのご馳走役1人、坊主2人が配置されていた。

5月22日、老中酒井忠清・松平信綱・阿部忠秋が小石川の普請現場を視察すると
     言うことで、片倉小十郎景長・茂庭周防定元・後藤孫兵衛近康・真山
     刑部元輔の4人が応対した。下見が終わった跡、老中三名はお茶の水
     渠辺を巡視している。

5月24日、増上寺に参詣。その足で東禅寺に参詣。
     貞山公政宗の忌日だったので香奠の銀子10枚を献上した。
5月25日、松平頼重・土井利長ら8人の大名旗本を饗応した。
5月28日、登城。此の時、公義より御普請人足扶持方6200人分を賜る旨、
     松平信綱・阿部忠秋より由井平兵衛・山高宇右衛門宛に文書が出され
     た。(扶持米は1日・一人・五合、6200人は延べ人数)
5月29日、鷹をもらったお礼に登城。老中へは公義使を差し向けてお礼を述べ
     る。併せて人足に扶持米を賜ったお礼を公義使に言わせている。
5月30日、本日吉日とのことで「普請鍬入れの儀式」が執り行われた。
     綱宗は午前5時に吉祥寺の仮本部小屋に出て、幕府の普請奉行衆、
     石奉行衆を饗じた。
6月1日、午前5時に普請場に出る。綱宗は遊佐九郎右衛門、松平信綱に向けて毎
     日登城を申し出たが「(小石川普請に専念し)登城は節句以外は無用」
     と回答を得た。

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