見出し画像

神田川・秘密発見の旅 後編12 建騒動の前触れ。政宗・忠宗が逝去、仙台藩は第3代綱宗が藩主に

後編13 伊達騒動の前触れ。忠宗逝去、綱宗が第3代の仙台藩藩主に

 この後の項目でも触れるが、政宗が請け負った工事の後、忠宗、綱宗、亀千代(後の綱村)と4代にわたって「仙台堀」を完成させている。投下された人足、費用も膨大だったであろう。度々引用している「江戸・東京の川と水辺の事典」(鈴木理生)によると

「・・平川拡幅工事は、単なる舟運路造りではなく、近世城郭都市の江戸が、いわゆる「大江戸」と呼ばれる範囲に拡大した記念碑的工事だった。それは家康の江戸赴任から数えて七十年目に当たっている」と述べ
「徳川の江戸城が(それを支える)「天下の総城下町」を含む大規模なものになったのは将軍の代で四代、実年数で七十年の歳月が必要であった。その総仕上げの意味を持つのが明暦大化(1657)という大災害を挟む万治三年の神田川拡幅工事だった」と言っている。
 少し短絡的していえば、大江戸の基礎を切り開いたのは仙台藩だった、ということにならないだろうか。「仙台藩物語」の改訂版が出るときには江戸・仙台堀のことも書き加えてほしいところだ。

 仙台藩といえば「伊達騒動」が有名で、
歌舞伎の「伽羅先代萩」、山本周五郎の「樅木は残った」を読んだり観劇した人は多いと思うが、伊達藩お家騒動は神田川の第二期開削工事が始まったその初っ端から幕を開けるのだ。お手伝い普請には目が離せない。
 万治3(1660)年正月、仙台のお城に家臣全員を集め、祝儀が行われた。
政宗の跡を継いだ忠宗は2年前、万治元(1658)年8月10日に亡くなっており(享年58歳)、仙台藩主は3代目の綱宗に代わっていた。此の時、綱宗は数え21歳。

 正月24日になり、老中より御奉書が出された。
「去ル十四日江戸火事出来、家屋敷多類火ノ段相達シ、御心許ナキノ旨其意ヲ得ラル、御城近辺御曲輪ノ内恙無キノ間御心易ナルヘシ、御念入示サルル通リ、上聞ニ及ハルヘキノ由御挨拶」と。
 火事は「湯島天神門前から火の手が出て、湯島・旅籠町・筋違橋・和泉橋・柳原・石町・銀町・小伝馬町・小網町・箱崎橋・村松町まで焼け、人家2350軒、死者70名を出す大火事だった。(厳有院殿御実記)
 続く2月1日、老中連署の奉書が仰出された。
「水戸中納言屋敷前のお堀浚い並びに土手の修復の御普請を仰せ付ける。5月の下旬に取り掛かるように。なお、石高1万石について100人の人夫を申しつけるから人夫もそれまでに到着させるように」と言う趣旨であった。掘浚いとは船が往来できる規模の運河にすることで、土手の修復とは城側にそれに見合った土手を築き、土手の上には松を植えること、と言う内容が示された。

「十日、松平陸奥守綱宗に、牛込より和泉橋まで、運漕の通渠を鑿(さく)たしめらる又城溝の堤に小松を植えべしと植木奉行に命ぜられる」(同上)と書かれている申し渡された人足数は仙台藩が表向きの録高62万石だったから6200人を都合せよと言う趣旨になる

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?