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神田川・ふしぎ発見の旅 後編35 筋違橋の謎を解き明かす・・えっ、謎じゃないって?

後編35 筋違橋の謎を解く鍵(2022年4月26日)

 江戸の時代、神田明神下に神田川を渡る筋違橋(スジカイバシ)があった。
この橋は流失したり、火事で焼け落ちたり、架け替えが行われたりの変遷を経て、明治5(1872)年に取り壊され、今は存在しない。
 初めに架橋された場所は昌平橋の100メートルほど下流、「寛永江戸全図(寛永19年頃の江戸図)」によると、神田川右岸に枡形の門が描かれていて門の周りは町人地となっているが筋違橋は見附門のまん前にある。
 江戸図には橋の脇に漢字で「筋違橋」と明記されている。
これが「明暦江戸大絵図」になると、「すじかひ橋」と書かれ、描かれている見附の御門は強化され石垣積みとなっていて、門の前には火除け地が設けられている。

 この火除け地は寛永19年の絵図にはなく、明暦の江戸図に出てくる空き地なので、明暦の大火の後に設定されたスペースであることを推測させる。
安政3年(1856)の江戸図絵では火除け地の名前を「ハ辻原」と表記している。
このスペースを取るために筋違橋の近辺にあった町屋地の一部はなくなり、永井信濃守の屋敷地も削られている。
 さて、筋違橋の謎に迫りたい。
とはいえ、謎はないよ、という見方もできるから、謎解きの必要もないのかもしれないが、考えれば考えるほど分からなくなってしまうところを見ると、やはり謎としか思いようがない。ここは、謎めいているとして進んでみたい。
 (トシをとるとなんでも疑ってかかるようになる。
  今の若者もやがて理解できること)

千代田区が設置した説明看板

 先ずは橋と一体になっている門のことについて、千代田区の説明看板から拾ってみる。というのはここに挙げた説明は引用先を明示しないネットの情報にほぼそのままの文章で使われている場合が多いからで、ほとんどが何の不思議もなくこの説明で納得しているかに見える。
「御成道(筋違門跡)
 御成道とは、参詣などで通る道筋のことを言います。
 江戸時代、この場所には江戸城外郭門のひとつ筋違門があり、
 上野寛永寺の将軍家墓所への参詣と、日光東照宮への参社の際に、
 将軍は江戸城大手門から出て神田橋門を通り、この門を抜けて上野に向かいまし
 た。筋違門の名は、日本橋から出発して、本郷・板橋に向かう中山道と御成道が
 筋違に交差していたためです。
 門内には日除けの広小路があり、八つの口に通じていたため、俗に「八つ小路」
 と呼ばれていました。   千代田区」

ここでは門の名前を「筋違門」と呼んでいるが、江戸図の多くは「筋違橋門」と表記している。なぜ、筋違いと言われるのか・・・この謎を解かなければ眠れない。


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