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神田川・秘密発見の旅 後編38 神田川の面白さは江戸の歴史をそのまま背負っているからなだなあ。

後編38 神田川の面白さは江戸の歴史をそのまま背負っているからなんだ!

 「江戸・東京の川と水辺の事典」では「旧石神井川が平川放水路に接続された地点は筋違(スジカエ)と呼ばれ、後にこの場所に江戸城36見附の一つの筋違橋門が建設されている。これは河流を変更した場所がそのまま「すじかえ」という地名に残されている一例として特徴的である」と言い切っている。

 御成道は上野の寛永寺や日光東照宮に参詣する将軍が通った道をいうことは前記の通りだが、その関連では次の歴史をおさえておきたい。
――日光東照宮が造営されたのは家康が薨じた翌年(元和4年、1617年)、上野の寛永寺が完成したのは寛永2(1625)年。つまり御成通は秀忠が日光東照宮・遷宮式(家康が神様の大権現となって久能山から日光に遷宮した)に正式に参列した元和4年4月17日以前の名称ではなかったーー、と思える。

 次に、筋違橋門ができたのは、寛永13年~16年(1636~39)に行われた
江戸城外郭工事、第5回目の江戸天下普請の中でのこと。汐留川沿には赤坂門、食違門が、神田川の支流(長延寺川)には市谷門、牛込門が、神田川沿いに小石川門、筋違橋門、浅草橋門が建造されている。筋違橋門は石垣方の一組を一手に引き受けた加賀の前田利常の普請で、枡形は寛永13年に、門は寛永16年に完成した。

 江戸図を落ち着いてよくよく見ると、不思議が増幅してくる。寛永寺に続く不忍池と神田川の筋違橋とを直線で結ぶ線上が御成道にあたる。旧石神井川は不忍池を出ると、湯島天神の裏手の崖下を抜け、神田明神下を通過(つまり御成道に沿って流下)していたと思われる。旧石神井川が流路を変えたためにそのあとできた道ではないか、と想像が膨らんでしまう。

 以上で「筋違橋門の謎」は解けたと考えて良いのだろうか。
 筋違は「中山道と御成道が交差する所」という意味か、「旧石神井川の川筋が変更された所」という意味か・・・。終わったこと(古い話)だからどうでも良いと思ってしまえば簡単だが、考え始めると眠れないほどに疑問は膨らんでいく。
千代田区が建てた現在の説明看板が「昭和51年版」とニュアンスが違うのはその後の学術的な研究・調査が進んだためかもしれない。機会を見て千代田区に問い合わせてみたい。

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