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神田川の秘密31の3 昔、神田川の水は飲み水だった

三十一の3 神田川の水はその昔、清浄な飲料水だった

 井の頭池から流れてきた水を大滝橋の先に大洗堰という堰を作って水位を上げ、水の流れに高低差をつけて小石川後楽園に有った水戸藩・上屋敷まで流した。そこからは後でもう一度紹介する予定だが、上水は万年掛樋で神田川の上を乗越して地下に埋設した上水道を通じて大江戸八百八町の飲料水として流していた。江戸の人々は神田川の水を飲んでいたのだ。

神田川の水を堰き止めて江戸の町に流した

 人は川がなければ生きていけない動物だということを再確認できる。街が川を必要とし、川は人々の命を支え、暮らしを支えて街を作ってきたのだった。神田上水は家康が江戸に入った直後の天正18年(1590)年に開かれ明治34年(1901)に閉鎖されるまでの約300年間使われてたいた、と「文京区のふるさと歴史館」は語っている。
 とすれば、東京に住む明治の人たちも神田川の水を飲んでいたのだ。その後、大洗堰は昭和8(1933)年に撤去されるまで陸軍砲兵工廠の工業用水として使われていたそうだ。

石柱の説明看板
読みにくい石柱本体

 東京市は昭和12年に江戸川を改修する折、堰の由来碑を建てたのだが、その碑も失われ今は銅版の碑文だけが残っている。銅版が語る撤去の経緯を少し長いが引用する。

『神田上水⚫️蹟碑
 徳川氏府ヲ江戸ニ開クノ初 大久保主水忠行命ヲ受ケテ
 上水開設ノ工ヲ起シ 多摩郡井之頭池ノ水ヲ用ヒ此地ニ 
 堰ヲ設ケテ神田ヨリ市中ニ給水ス 神田上水即チ是ナリ 
 此地ハ地勢高俊老樹蓊蔚タル 目白臺下ノ景勝ニ位シ亦
 四季ノ景物ニ富メルヲ以テ 古来江戸名所トシテ聞ユル
     (中略)
 大正八年附近水道附属地ヲ江戸川公園ト為シ
 上水史蹟ノ保存ニ務メシガ昭和十二年三月江戸川改修ノ
 工成ルニ至ツテ遂ニ⚫️観ヲ失ヘリ
 伋テ茲ニ⚫️洗堰遺材ノ一部ヲ用ヒ碑ヲ建テ由来ヲ刻シ 
 以テ追憶ノ資トナス 
     昭和十三年三月  東京市』※⚫️は読解不可

 江戸切絵図を見ると、駒塚橋は現在の場所よりやや下流に描かれていて、大滝橋、一休橋は無く、江戸川橋の手前に関口橋が描かれている。絵図面だから、正確な場所を示していない可能性はあるが、橋そのものがないのはこの時代(嘉永年間)にそこに橋は掛かっていなかったのだろうし、別の名前の橋が有るのは名前が変わったのかあるいは全く別な橋なのか。

江戸時代嘉永年間の切り絵図
左下に駒塚橋の名が見える
神田川が二股になっているところが大洗堰
二筋のかわのうち地図の上側を流れるのが飲水の水道

 それはともかくとして、ここで石碑に刻まれている大正8年に設置された江戸川公園について一言触れておきたい。椿山荘が椿の花が群生する台地の上に建てられていることはすでに書いたが、神田川はその台地の底を流れている。つまり、江戸川公園は神田川の左岸、崖地をメインにして巧みに造成した公園で、長いスロープの遊歩道と階段道路を上手に組み合わせて変化をつけ、崖地の持つほんのチョッピリした危うさが訪れた人をワクワクさせている。崖地公園と言っても良い。崖の上の小道を進むと目白通りにぶつかり、椿山荘の正面口脇に出られる。

崖を利用した公園・・都内では珍しい形
崖に沿って遊歩道がある


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