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神田川・秘密発見の旅 後編18 伊達騒動の真実・・・仙台藩の内部の動きを神田川工事との関係で見る

後編18 伊達騒動の真相・・仙台藩の内部の動きを神田川工事との関係でみる

 伊達綱宗の行状がいよいよ幕府内部でも問題になり始めたと知った伊達兵部と立花飛騨守は相談の上、幕府から処分される前に綱宗の隠居を申し出たほうが得策とみて、國本に急使を使わせた。
 仙台では奥山大学が重臣を集めて意見を求めたが発言するものは一人もなく、奥山自身が「減封処分を受けるよりは進んで綱宗公の隠居を願い出るべき」と声を大にして説得し、そうと決まった、とある。

 関ヶ原の合戦から70年近く経ち、徳川の世となり、戦国の気風は衰え、仙台藩の重臣たちには「御身安泰」の考え方が忍び込んでいたのだろう。藩の存亡に関わる重要な会合で自分の意見を述べず、成り行きに任せる気運が生じていたのだと思える。重要な役職にある人物はいつの時代においても行動様式に変わりがない。

 隠居後の綱宗について東藩史稿は「(雄山)公是ニ於イテ節ヲ改メ盃ヲ断チ身ヲ慎シミ、和歌及琴碁書画ヲ以テ楽トナス、優遊以テ歳ヲ卒フ、丹青ヲ狩野探幽ニ学ヒ、逸品多シ」と書き、骨董や作刀などにも並々ならないものがあった。「書技ニ通シ」ていた、と書き残している。雄山公の詠んだ歌はあまり伝わっていないが「花カタミ木ノメモ春ノ野ニ出テ雪マノ若菜ケフモ摘マシ」と「ケサヨリハ松タテワタシ此宿ニ千世クミカハスハルノサカツキ」他2首を紹介している。雄山公は「7男11女アリ」と書き添えてある。

発行部数が多く、古書店でも手に入りやすい

 伊達騒動はあまりにも大きな事件なので、一つ一つの経過や騒動最終盤に起きた原田甲斐の刃傷沙汰、そして原田一門への処分の実態はハッキリしているが、なぜこのような大事件が起きたのかについては判然としていないところが少なくない。

「尽忠録」という記録には「雄山公(綱宗)は義山公(忠宗)の子ではない。将軍家光が伊達氏の胤を移さんと欲してお手付きの侍姫(じき・家光に仕えていた腰元)が妊娠していたのだがこれを伏せて義山公に賜った。それで生まれたのが雄山公で、雄山公が逼塞後、世継ぎの亀千代君は毒殺され、密かに水戸光圀の子を仙台藩に迎えて亀千代君とし、公辺の無事を繕った。このことを知った伊達宗勝と原田甲斐がこの血統を断ち切るために謀略をめぐらした」
という怪説があったことに触れている。
 この怪説については文学博士の星野恒が詳しく反論しているし、大槻文彦博士が「伊達騒動実録」を著しているから、この博士たちの著書を読んで事実を正しく理解してもらいたい、と東藩史稿は述べている。

 騒動が収まったのは元禄10(1698)年のことだった。
第二期仙台堀開削が始まった万治3(1660)年、つまり綱宗公が逼塞させられてから数えると38年の月日が大騒動に費やされたのだった。

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