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神田川の秘密33の(4) 江戸時代の寺も現代風に様変わり。ビルになってしまった。
三十三の4 時代とともにお寺の姿も近代化
尾張屋清七板・嘉永7年の江戸図を見ると、小日向金剛寺は今の龍関寺に隣接していて、門前町を持った規模の大きい寺院(曹洞宗吉祥寺の末寺、敷地6448坪)だったことがわかる。他所に越したのか、廃寺になったのかは分からないが、坂の名前は残っている。安藤坂の元になった安藤飛騨守(紀伊・田辺藩)の上屋敷はその金剛寺門前町に隣り合わせていた。江戸図で見る限りでは金剛寺より屋敷地は広い。
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提供していた
神田上水が流れていた開渠部分は石巻通りと言われている。神田上水が廃止され、蓋をかけられてからの通称で、石を巻いたというところから来ているらしい。その石巻通りに沿って江戸時代から現在に続くいくつかの寺院がある。江戸川橋側から環国寺、智願寺、妙足院、清光院、善仁寺、日輪寺、本法寺、稱名寺などである。
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江戸切絵図・小日向繪図には環国寺は運国寺、智願寺は知願寺、妙本寺に至っては妙尼寺となっていて、本法寺は本方寺に、稱名寺は称名寺となっていた。この辺のいい加減さがなんとも緩い江戸の価値観なのだろう。
この緩さが老人にはしっくりくる。
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江戸時代にあった寺院だから、きっと江戸の風情を残した、味わいのある寺だろうと期待したが、世の中そうそう甘くない。
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各寺院の建物は寺院風の近代的ビルディングで、マンションビルを持っている寺さえあった。敷地も僅かなスペースとなっていて、明治から今日に至る寺院の経済的な苦難の道を想像させる。そう、石巻通りには江戸の面影はないし、上水道だった過去の栄光も残されていない。自分の足で歩いてみた限り、神田上水を水戸藩上屋敷に流していた開渠跡を手繰ることはできなかった。率直な気分はガッカリしたというところ。白鳥橋に戻って、先週歩いたばかりの川沿いの道、つまり目白通りの歩道を飯田橋駅に向かった。
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