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伊勢音頭

 ふいに三味線と太鼓の音が聞こえてきた。それに合わせて日本髪の芸者が踊るにぎやかなお座敷が闇の中に浮かんでいる。酒肴の膳を前に客たちはじっと芸者衆の踊りに見入っている。地方衆は音曲をにぎやかに奏でている。『伊勢はなぁー津でもつ、津は伊勢でもつ』と歌っている。伊勢音頭だ。ふいに座って三味線を弾きながら歌う地方芸者の顔に目が留まる。由美子だ。察するに由美子は売れないミュージシャン稼業に見切りをつけて芸者に転身したらしい。洋楽で育ってきた由美子に抵抗はなかったのだろうか?生きるためならやむを得ないのか。両親は彼女がこんな世界にいることに何も言わないのか?それとも彼女が芸者をしていること自体まったく知らないか。
 1週間でいいから居させてほしいと言いながらずるずると3か月以上いそうろうしていろんな支払いを私に肩代わりさせたあげくに突然姿を消した由美子。ダメもとでメールで請求すると彼女の別れた恋人に払ってもらって欲しいの一点張りだった。なんで私にあなたの元カレに請求させるの?大体彼にあなたの使ったお金を払う義理なんてないでしょうが。しかもその時点で由美子には新しい男がいたのだから。ともあれ由美子が私の前に姿を現すことは二度となかった。それから長い時間が流れた。ときおり流れてくる風のウワサにも由美子が誰かといっしょになったなんていうのはなかった。彼女のウワサを聞かなくなってまたさらに長い時間が流れた。
 払う払うと言いながら結局は私に全部押し付けて姿を消した寸借詐欺女が芸者に姿を変えて今お座敷に座っている。行燈風のフロアライトの光に照らされた由美子の顔はどこか穏やかで満ち足りた表情をしている。あるいは何かを望むことはとうに諦めてしまったのか。
 しかし何で伊勢音頭なんだ。彼女の実家は三重県でも名古屋でもないはずだ。今はそのあたりに流れ着いて定着してるということか。伊勢はいい所だ。風光明媚で食べ物も美味しい。何より伊勢神宮に守られている。彼女の心の安定には大いに寄与するはずだ。
 突然舞台が暗転するかのように明るいお座敷の光景は闇に消えた。しかし伊勢音頭はいつまでも賑やかに暗闇の中を鳴り響いていた。

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