連載第1回 「どんどん君は、好きになる」 

死ぬのだ、とアキにはわかった。
頬に固い地面が当たった瞬間、痛みよりも体から力が抜けていくのを感じ、もう二度と立ち上がることはない、立ち上がれないのだと確信に近い形でアキは思う。
目の前で斬られ、肉の塊となって死んでいった父の姿、眠るようにして穏やかに亡くなった母、そのどれとも違う死に方だ。ゴミ、というよりも塵のように、ただ体から何かがサラサラと抜けていくのを、もう一人の自分が見ているかのような。
悔しい、もっと違う人間に生まれたかった、と思う。たかが13年間しか生きられず、8歳で両親が亡くなってからは矯正施設、そこからは汚染された野を開拓し、浄化する作業に駆り出され、そのまま命を終える。
生まれたとき、誰もが受ける祝福、占いを授けた老婆が言っていたのだと、
両親がうれしそうに言ったお告げのことを思い出す。
「強い運命を持った子だ」。
そう言って、祝福を授けたまじないい師。強い運命なんてなかった。ただ、のたれ死ぬだけだ。
死ぬときは、せめて美しい景色を見たい、と思っているのに、アキの目には宙に浮くドームに守られた支配都市が映る。支配都市は確かにきらびやかで輝くような光に満ちていたけれど、ずっと憎しみの目でしか見上げてこなかったから、とても美しいものだとは思えなかった。
これが死ぬ前に見る相変わらずの風景かと思うと、悔しくて体から怒りが湧き上がった。もしかするとその憎しみで、最後にもう一度立ち上がることができるのではないかと思ったけれども、指先に力を入れてもほんのわずか第一関節までしか動かなかった。
もっと生きたかった。こんな絶望しかない世界じゃなく、支配都市でもなく、そもそもそんなものがない世界で生きたかった。
何よりも、飢えるのはごめんだった。お腹いっぱい何か食べたかった。本当は死ぬ前だけでも、満たされたかった。
両親に甘えてずっと暮らしたかったし、まわりの人間ともうちとけたかった。大切にされたかった。大切にされるべき人間だと、誰よりも自分が思えるように生きたかった。
人を好きにもなりたかった。
死にたくない、こんなみじめに死にたくない、という言葉だけが繰り返し頭の中によぎる。アキの片目には、脳内に埋め込まれた心身保持アラートが映し出され、もう確実に死ぬのだといくつもの数値が告げている。なのに、こんな憎しみしかない世界なのに、自分が消えたくない、もっと生きたいと思ってしまう。
なぜか世界がまぶしく、金色の光に包まれていくのを感じる。体全体が温かなものにくるまれる。気持ちいい。光を見たいと思う。
けれど……まぶたがどうしようもなく重くなり、ほんのわずかに残っていた命の力が指先からこぼれ落ち、そして、最後、ひとつの吐息を吐いて、アキは死んだ。

眩しい……、最初に思ったのは、それだった。
目の前に金色の光が広がる。
鼻いっぱいに甘い香りを感じて俺は驚いた。
さっきまでざらついた固い地面に横たわっていたはずなのに。
空気が……きれいなのか? 息が苦しくない。
「何をぼーっとしているの、はるか?」
ビクッとして体を起こす。目を開けると椅子に座っていた。
「やあねぇ、座ったまま寝ているの? しっかりしてよ」。
「えっ??」
「ほら、大好きなはちみつたっぷりバタートースト」。
目の前に真っ白な皿と、甘い香りの物体が置かれる。金色の光、と思ったのははちみつだった。
「さすがのはるかも入学式だから緊張しちゃったかな?」
目の前に女がいて、ニコニコ笑いながらの顔をのぞきこんでくる。
「はぁ⁉」。
なんだこいつ。頭おかしいのか。というか、だいたいここはなんだんだ。さっきまで俺の体はくたびれてそのまま力が抜けて、まさに死ぬって思っていたというのに。というか、そもそも、ここはどこなんだ?
椅子から立ち上がろうとした俺の肩を、目の前の女がポン、と柔らかくたたいた。
「まぁまぁ、落ち着いて。はるちゃんが緊張するのもわかるわよ、なんてったって今日が入学式だもんね。だからさ、ママ、はるちゃんの大好きな朝ごはんいろいろ作っちゃった。ほら、早く食べて食べて」。
目の前に皿がつきつけられる。た、たしかに。俺は腹が減っている。
甘い香りと黄金色に輝く物体……これ食べ物か? 
俺が知っている食べ物はいつも四角いバーやチューブに入った栄養剤だったが……。けれど、あまりにも甘い香りに誘われて、俺はおそるおそる手にとってかじりつく。なんだこれ、うまい!!!
とろりとした液体に覆われた、さくさくの四角い物体。ところどころふわん、と白い断面が歯を柔らかく押し返す。あっという間に食べ終えた。
「よかった、はるちゃん、元気でたね! さ、ママも一緒に行くから、がんばろう。今日から楽しいJK生活のスタート!」。
目の前の女が満面の笑みで俺の顔をのぞきこむ。
ママ??ってことは、俺はこいつの子ども? いや俺の死んだママとは似てもにつかない。見るからにアジア人で、俺とは違う?? いや違わない⁉
自分の頬に触れるとふわっとしてやせ細っていた自分とは違う、髪は肩先まで伸びきっていて、黒い? 慌てて自分の顔と体を手でさぐる、服が違う、なんだなんだ?
パニックになっていると、女がまた笑いながら手を引いて俺を鏡の前に立たせた。
「やだ、はるかったら、身だしなみはちゃんと鏡見ながらしないと」。
目の前の鏡に映る俺は、女だった。しかも服は非常に珍妙な……いや、まだ幼い頃に通っていた学校で習ったことがある、これは数百年前のアジアのユニフォーム? 俺が身に着けていたのは、非常にオールドスタイルな、確か白シャツ、と呼ばれるものにスカート。そして、紺色の羽織ものは俺もよく知っている軍隊が着るようなかっちりとしたジャケット。
嘘だろ? 俺の見た目が俺じゃなくなっている⁉
呆然としていると、女が俺の襟元のリボンを結びながら笑いかけてくる。
「大丈夫、かわいいかわいい!」
そういうと、そのまま一緒にウキウキと俺の手をひっぱりながら歩きだす。
狭いシェルターの中を横切って、勢いよくドアを開ける。
「行ってきまーす」。
ダメだ、シェルターから出ては!
と瞬間的に思ったが、あまりにも女が勢いよく歩き出すものだからつられて俺も一緒に外に出てしまった。
「ほらはるか、ちゃんとして、ふにゃふにゃしないで歩く」。
女が強い口調で言うのだから思わず、俺も姿勢を正して横に並んで歩き出す。
が、まず驚いたのは、誰も防護服を着ることすらなく、全身を大気にさらして歩いているのだ。やばいだろ、と思ったけれど、息がしやすい。なんだすごいうまいぞ、この空気。俺の横をアンティークカーが走っていく。クルマ⁉ なんだこれ知ってるぞ、ヒストリアの授業でバーチャル体験したぞ。確か2000年代前半だったような。あれ、俺、もしかしてタイムスリップしてる? 
技術的にはできるはずだったが、安全性と倫理性のためにタイムスリップは禁止されている、と聞いていたが、死ぬ直前だったから許されたとか? え、でもだったらなんで俺、こんな体と見た目になっているんだ? そもそも……俺は自分の体を見下ろす……この体、たぶん女。入れものが、女になっているんだが???
呆然としたまま、女に連れられて電車に乗る。
「ぼーっとしないで。明日から大丈夫なの?」。
俺はわけもわからず、目の前の女の言うがまま。そもそもこの世界のルールがわからないんだから!
パニックになり、キレ散らかしそうになるけれど、まず深呼吸。これは死んだ父に教わった。低く落ち着いた声を思い出す。そして、俺の頭を撫でていた手のしっかりとした厚い感触も。
我を忘れてしまいそうになったら、息を吸うんだ。自分の息のリズムに耳を澄ますんだ。
そしたら、落ち着くから。
ママ、と自分のことを主張している女がいるせいか、父を思い出して思わずしんみりとしてしまう。
呼吸を繰り返していたら、ちょっと落ち着いた。
頭の中で整理をすると、俺はどうやらこの女の娘、名前はどうやらはるか。で、入学式って言うからには、今日から学校がスタートする、ってことでいいんだよな。
あたりを見ると、大量輸送機器である電車には、俺が着ている服と同じような格好の人間がちらほらいた。ユニフォーム、うん、これはわかる。同じ風を着ているものは、同じ団体、おそらく学校に通っているんだな。
状況を見極めるんだ。これは、俺自身が、あの荒れ果てた地に放牧されたときに身をもって学んだこと。何かできることはないか、何か手がかりはないのか。
「ねぇ、ママ、今日って何年何月何日?」
にこっと笑いながら聞く。
俺は気づいた。目の前にいるこの女からなるべく多くの情報を得ておかないと。わけのわからないこの状況、どこでどうサバイブするか、どこでうっかり命を落とすリスクがあるかを探っておかないと。
「変な子ねぇ。4月8日。忘れるわけないじゃない、あんなに入学式楽しみにしていたじゃないの?」
「だから何年?」
「なに、そのクイズ? 2025年じゃないの」。
その言葉を聞いて、俺は驚く。2025年、ちょうど300年の昔の世界か。
うろ覚えの知識だけれど、革命が起きたのは、ちょうどこの30年後。しばらく平和が続いていたはず。
そんなことを考えていたら、いきなり人波が押し寄せてきて、俺は電車から押し出されてしまった。ぼんやりしていたせいで、とっさに受け身を取れずよろけて、転びそうになったところで、ふわっと体が浮いた。
「ちょっときみ、大丈夫?」。
顔を上げると、整った顔立ちの男の子が、転びそうになった俺の手をひっぱり上げてくれた。
「あぶなかったね。俺が乗ろうとしてたところに転がりでてくるんだもん。ま、ケガしなくてよかったよ」。
「あ、はぁ」。
とっさに何と言っていいのかわからず、うなづく。後ろで電車の扉が閉まり、乗っていた列車が走り出していた。
「あ、すみません。行っちゃいましたね」。
さすがに悪い、と思って俺は言う。この電車に乗るつもりだったって、そいつが言ったから。
「いいよ、別に。まだ間に合うし」。
そう言いながら、俺に向けて笑いかける。整った顔立ちをしている。目は切れ長で、微笑むと、口角がキュッと上がり、不思議な魅力を感じさせた。思わず目を惹きつけられてしまう。年齢はミドルティーン、17、8歳ってところか?
見ると同じ制服を着ている。
「君、新入学生?」。
そう言われてハッとする、やばい。自称・母という女と別れたら、どうしていいのかわからない。俺自身がはるかってことはわかっているけれど、どこで何をすればいいんだ? 学校なんかはどうでもいいが、シェルターへの帰り道もわからないのだから、あの女とまた会わないと!!
「あ、あの、私っ!! ここからどう行くかわからなくて!!」
焦って言うと、目の前の男の子がちょっと吹き出して、笑った。
「いいよ、一緒に行こう」。

 男の子が言うがままに2つほど先の駅で降り、並んで歩いて行く。同じ服を着たあたりの子たちが、チラチラとこっちを見ている。目線を感じてそちらを見ると、さっと目を逸らされてしまう。なんだ? やたらと視線を感じるような……。
”啓明学園高等部 入学式」と書かれた立て看板のある門のところまで行くと
「はい、到着。ここからは大丈夫だよね? 僕ちょっと用事が合って急ぐからここでごめんね」。
「はい、ありがとうございました」。
「明日からは転ばないようにね!」。
お礼を言うとニコッと笑って手を振ってくれた。なんだか感じがいい人だな、なんて思っていると、すぐに後ろから
「ふーん、かっこいい子ね。はるかってばやるじゃない」。
ママがにんまりと笑っていた。
「駅で待っていたら、はるちゃんがイケメンと二人で歩いてくるんだもん。心配だったけれど、友達になっているみたいだし、ママ後ろからこっそり見守っちゃった」。
からかうような口調で言いながら、俺を連れてホールに向かう。母親らしき女から渡された紙には、「秋元はるか 1年C組」と書かれている。どうやら、俺のフルネームは秋元はるか、らしい。セレモニーが始まるようで、母が「ママ後ろにいるから」と言うと同じ年齢の子の群れの中に俺は座らされた。
儀式はいつも退屈なものだ。俺のいた時代のことも思い出しながらも、ずいぶんとそれに比べたらアットホームだな、とも感じる。
軍隊が出陣をするとき、帝国の歴代・アリハーラ王の誕生日を祝うとき、兵器が開発されたとき、侵略が成功したとき、テラフォーミングの打ち上げのとき、いつも俺たちは野に立たされ、支配者たちが高みに登っていくのを祝賀させられた。凍えそうなときも、暑くて体が汗でベタベタになるときも。放牧される前、父が殺される前のあの時代、俺もこんな風に制服をまとって、祝いの場にいたのだ。
そんなことを思い出していると、ここがどこなんだか、ということはどうでもよくなり、心の中があの忌むべき世界でいっぱいになる。
二度と戻りたくもないが、でも、あの苦痛しかない世界に引きずり込まれ……、今が遠くなっていく。
「在校生代表 祝辞」。
マイクを通じて、セレモニーの司会が何かを言っていた。
声は遠くにしか聞こえない。俺を包むまわりの世界が離れていく。
「3年・生徒会執行部 有原大樹」。
聞き覚えのある名前。アリハーラ家の初代。あの憎しみだらけの世界を作った男と同じ名前。思わずはっとして顔を上げる。世界が急速に俺自身のもとへと戻ってきた。
壇上に登ったのは、今朝、俺を助けてくれた男の子だった。

あまりにも意外な一致に、さすがの俺も驚いた。なんだ、ここ。2025年のアジア、おそらく日本エリア。確かに時代的には、初代が生きていてもおかしくはない。だけど、ここにいるのが、有原大樹だって?
混乱をしたまま、壇上をぼんやりと見上げる。ちょうどこんな風に、あの時代、俺を支配するあいつらは壇上にいて、俺ははいつくばっていた。
そんなことを考えているうちに、どうやらスピーチは終わったらしい。
まわりの人たちが立ち上がり、ぞろぞろと歩き始めている。慌てて俺自身も立ち上がろうとするが、うまく体を動かすことができず、ちょっとだけよろけた。
「ちょっと大丈夫? 顔色が悪いみたいだけれど」。
横にいた女の子に話しかけられる。
顔を上げると、すらりと背が高い。
第一印象はずいぶんときれいな子だな、と思う。美しい、醜いの基準は国によっても時代によっても違うはずだけれど、目の前のその女の子はそれを越えた、きらめきがあった。ふっくらとした頬と、本当に真っ白に透き通るような肌、大きな目元と長いまつ毛。心配そうに俺の顔をのぞきこんでくるが、その表情の細かな動きの一瞬一瞬にハッとしてしまう。
「保健室に行く? 人が多くて酔っちゃったのかな?」
心配そうに言う。心からいたわってくれるのを感じて、ほんの少しだけ泣きそうになる。
「大丈夫、へいきだと思う」。
やっとの思いで俺がそう言うと
「そう……? じゃ、無理をしないでゆっくり、一緒に教室まで行こう」。
そう答えて、にっこりと笑う。
一気に人波が減ると、涼しい風が頬に触れ、先ほどのショックも少しだけ薄らいできた。
どういうきっかけでここにいるににしても、この世界は、美しい。しかも緑の木々が茂り、空は青く、風の中にほのかに甘い香りが漂う。
俺が知っている地球という場所の姿とあまりの違いに、思わず息をのむ。
足を止めていると、少女は、同じように立ち止まり、俺の様子をじっと見ていた。
「少し休みたいのかな?」
「あ、え、いや。あまりにこの場所がきれいだったから」。
思わず心の声が出た。
「……そう? あなたって意外なことを言うのね」。
そう言って不思議そうな表情になる。その顔すら目を逸らせないような輝きがある。
「私は子供の頃からこの学校に来ているから、見慣れちゃったけど。ね、名前はなんていうの?」
名前を聞かれて「アキ」ととっさに口に出るが、すぐに先ほどの書類の名前を思い出して「秋元、はるか、です」と慌てて言い直す。
どういうことかはわからないけれど、とりあえずこの俺が入っている器は、秋元はるかと名乗っていたのだ。だから、わからないなりにこの場ではそう言ってみる。
ほんの少しだけ、ちくり、と胸が痛んだ。アキという俺が本当に死んでしまったみたいで。
「きれいな名前ね。私はエレナ。八田エレナ」。
瞬間、俺は思い出す。あの何度も繰り返し歌わされた歌を。言葉が話せるかどうかの時から、歌わされたあの国と、帝国のゴッドマザー・エレナを賛美する歌を。あのクソみたいな世界を生み出した張本人、200年以上にわたって搾取と殺戮と恐怖と憎しみしかない世界を作り出した女のことを。
機械のように繰り返し、形だけでも呼んだその名前を。
思い出したくもないのに、歌の言葉が俺の中によみがえる。

清らに咲ける 野の花のように
確かに、細くすらしとしたその姿を見ただけではそう思うだろう。
漆黒の夜に 一筋の星が流れ
そいつの、真っ黒な瞳は、光を受けてキラキラと星のように輝いている。

「えれな……?」。
思わず繰り返す。その様子をどう勘違いしたのか、その女は
「いいね、いきなり呼び捨て。そんな風に呼びかけてくれる人はあまりいないから、新鮮でうれしいかも」とニコニコと微笑んだ。

永遠に輝く たけき うるわし その歌を
ほんのわずかに震えるような声に、その不安定さゆえに耳を傾けてしまう。それが花と歌われた、女の姿。

こいつが八田エレナだと。
驚きのあまり俺は立ち尽くす。体の中から怒りなのか、絶望なのかわからない震えがやってきた。
「やだ、あなた本当に気分が悪そう? やっぱり保健室に行く?」
「……そうね、そうしたほうがいいみたい」。
俺は彼女から背を向けて歩き始める。その様子を見て、その女は慌てたように、俺に向けて手を伸ばす。肩に触れそうなところで俺はそっと身を引いた。
「よければ一緒についていくよ、そんなに顔色が悪いのに」。
「へいき、ひとりで行く」。
「でも、場所がわからないんじゃ……」。
「教えてくれたら一人で行けるから。あなたはみんなのところに戻って」。
思ったよりもきつい口調になってしまった。だが、それすら体調の悪さと思ったのか、エレナは気を悪くするそぶりも見せず、「そうね、こっちの突き当りまで行くと、校舎が終わって職員棟があるの。その入口のところの左に保健室があるから」とテキパキと説明をすると、「お大事に」と俺に投げかけた。
言われるがままにとりあえず保健室に向かう。言われた場所にある小さなシェルターには誰もいなかった。あたりを見渡すと、ついたての向こうにベッドがある。ずいぶんとオールドスタイルの寝具だ。俺の生きている時代は、支配階級は、ふわふわと宙に浮く繭の中で寝ていたし、俺は繭から矯正施設の壁に埋め込まれたベッド、そこから野に放たれてからは、寝袋、といってもおそらくこのベッドよりは寝心地がいいだろうものを使っていた。
とりあえず、震えながらもベッドに腰掛ける。
いくら深呼吸をしても体の奥から震えがくる。驚きなのか、身体の奥に残る恐怖なのか、なんなのかわからない。
一体どういうことだ。なぜ、俺はここにいる。有原大樹と八田エレナが、まだ何者でもないこの時代に。なんてことはない、ただの少年と少女でしかないこの世に。
どうやら今は2025年で、俺は望んだとおりに母親がいて(おそらく父親も?)体は女になっているものの、健康っぽい、苦しいところも痛いところも、ケガもしていない。もしかするとこれは生きたかった俺の人生の続きなのか、始まりなのか、死んだ先の天国ってやつなのかもわからないし、死ぬ前の妄想なのかもしれない、とも思う。
けれども、なんで、と頭がわんわんうなる。オーバーヒートしそうに熱い。
どうしてだ、なんで俺はあいつらと同じ場所にいる??
と、そこまで考えて、ふと思い出す。
もう一人、俺が生きていた世界、あの帝国にとっては大きな存在がいる。
第三の男。
有原大樹、八田エレナがいたら、あの男もこの世界にいるんじゃないか、と気づいた。
歴史の大きな転換を作った男、エレナの元婚約者の塩野蓮。
その男は今、いったいどこにいる?
捜してみようか、と不意に思ったとき、俺の背後でガラガラ、と大きな音を立てて、ドアが開いたびくっと思わず身を震わせて振り向くと、そこには今の俺と同じぐらいの小柄な少年がいた。
体が細く、背も高くない。顔立ちは丸く、眼鏡をかけ……そしてそいつは鼻からぽたりぽたり、と血を流していた。
「うわっ、お前、どうしたんだよ」。
俺は思わず叫ぶ。俺が生きていたあの世界では血を見るのは日常茶飯事だったけれど、この穏やかな2000年代前半において、こんな風に血を流しているのは珍しい。
「あの、僕のぼせちゃったみたいで。鼻血が出たから、念のためにって。保健の先生は?」
「は? 保健の先生? ここにはお、あ、あたししかいないけど」。
俺がそう言うと、そいつは困ったようにあたりを見渡し、ティッシュボックスをから紙を引き抜いて、鼻先に当てた。
「困ったな…とりあえず、僕もここで少しだけ休んで様子を見てもいい?」。
「へっ? 別にいいけど」。
俺の言葉に気弱そうに微笑むと、そいつは机のわきにある丸椅子に腰かけた。
遠くから、人々のざわめく声が聞こえる。どうやら俺たちと同じやつら、つまり新入生たちも用事が終わったらしく、にぎやかにおしゃべりしながら、帰っていくようだ。保健室の窓は開け放たれ、薄い白いカーテンを透かして、陽射しが差し込んできていた。きれいだ、と思う。こんな風に太陽がまぶしく輝いて、それを直接、この肌に受けられるなんて。
ぼんやりと窓の外を見る。

 どれぐらいその時間が過ぎただろう。ほんのいっとき、数分のような気もするし、もう長い時間こうしているような気もした。
顔を上げると、小柄な少年もどうやら血が止まったようだ。目が合う。
「あんた、もう血が止まったみたいでよかったな」。
俺がベッドから立ち上がり、出て行こうとするとそいつもふっと小さく笑った。
「君もずいぶんと元気になったみたいだね」。
そう言うと椅子から立ち上がる。
「僕ももう行くよ、先生も来ないみたいだし。教室での説明会も終わっちゃったみたいだしね」。
鼻に当てていたティッシュをゴミ箱に捨てると、俺と並んで保健室を出た。
「君も一年生?」。
なぜかそいつは親しげに話しかけてくる。
「ん、ああ。えーっとC組」。
「そうなんだ、僕もだよ」。
「へぇ、あんたなんて名前?」。
先ほどのエレナとの会話を思い出し、どうやらこの世界においては、名前を聞くことがマナーっぽい、と思ったから聞いてみた。
「塩野、って言います」。
そいつははにかむように、もごもごと口の中で名前を小さく告げた。
俺は目の前の男を見下ろす。
俺が抱いていたイメージとあまりの違いに驚いて、なんどもそいつの顔を見てしまう。
こいつが塩野蓮だって? 
嘘だろ?
怜悧な天才。冴えわたる知性ゆえに、有原に憎まれ、エレナに愛された男。
エレナの心に傷を残し、その傷ゆえに帝国を築くために力を注いだとも言われる。
俺の父親たちが共鳴し、それゆえにあんな風に追われて殺され、その思想のもとを考えついたと言われる、その塩野蓮か?

この、ちびで、眼鏡で、ついでに髪の毛もくるくるしていて、ひょろひょろで、はっきり言って冴えないこいつが?? 鼻から血を流して、おどおどしていて、あの時代に生きてたら真っ先にくだばってしまいそうなこの男が?
塩野蓮ってこんな男なのか呆然と俺はそいつのつむじを見下ろしていた。
そこで気づいたのだが、俺のほうがちょっとだけ背が高いのだった。














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