連載第二回「どんどん君は、好きになる」

俺は驚いて、そいつの顔を見下ろす。
俺が生きていた世界での塩野蓮に対するイメージ、カリスマ性がガラガラと音を立てて崩れていく。
うろ覚えだったが、そいつが長生きをしていたら、世界は変わっていた、と言われていた男。
目の前にいる男は、13歳でやせっぽちだったもともとの俺の姿と身長も変わらず、目立つのは眼鏡ばかりで表情も読めない。
思わず息をのんだ。すると、塩野蓮は、そんな俺の驚きと探るような気持ちと、ほんの少しだけ見下したような目線に気づいたのか、ふっと目を逸らす。そして足早に歩き始めた。
その横顔に一瞬、傷ついたような表情がにじんだ。
それを見て、俺の心がズキッと音を立てて痛む。悪いことをした。こいつを見た目だけで判断してしまった。親切にしてくれたのに、見くびってしまった。
慌てて、塩野を追いかけて「ちょっと待って、待ってよ」と声をかける。生徒たちの姿はもうまばらで、学校の門の近くまで来ていた。
塩野は俺の呼びかけに足を止めて振り返る。
そして、俺をまっすぐに見た。
その目線が意外にも強く真っすぐなことに気がついて、俺はますます戸惑う。この世界に来て、それどころか俺が生きていたあの時代ですら、誰かにこんなにじっと目を見られたことはないのだった。その目は意外にも美しい三日月のような形をしていた。
呼び止めてはみたものの、いざ、目の前にすると、謝るのも余計に変だし、傷つけてしまうかも、と思って何を話そう、と迷ってしまう。
そのとき、不意に風が吹いて、ピンク色の花びらがあたり一面に舞い散った。塩野蓮と俺を淡い美しい花びらの嵐が包み混む。
なんだこれ、これは、いつか歴史の授業でいつか学んだことがある。まだ平和な頃の世界には植物がたくさんあって、季節によって異なる花や実が成っていたのだと。
「わぁ、桜?」
初めて見た驚きで、思わず声が浮き立つ。
なんだこれ、美しすぎる!
伝説だと思っていた。春を告げる花。太い木の枝いっぱいにピンク色の小さな花がいくつも咲いて、それは儚く、風によって散っていく。春になるとあたり一面がピンク色に染まって、それはこの世のものとも思えない美しさなのだと、聞いていた。
知らず知らずのうちに手の平を広げて桜の花びらを抱きとめようとしていた。
「ねっ、すごいすごい、きれー!!」。
体の中からワクワクするような気持ちが湧き上がってくる。シャボンのようにブクブクと浮き立ってくるような喜び。
思わず塩野に話しかけてしまった。やば、はしゃぎすぎた!と思ったら、塩野も櫻が舞い散る空を見上げている。それから、俺に向かって、小さく微笑みかけてきた。
太陽がメガネに当たってきらきらしているのか、それとも、塩野蓮の目がきらきらしているのかはわからないけれど、微笑んでいる塩野の表情は柔らかかった。
「本当にきれいだね」。
ドキン、と心臓が、先ほどまでと違うような音を立てる。
え、嘘だろ? 俺の体に起きた変化にちょっとひるんでしまう。
なんだこれ、先ほど体の奥から立ち上ってきた嬉しさのせいか?
頬に血がのぼる。なぜかいたたまれない気持ち。
思わず動揺する。
その様子を見て、塩野はまた笑いかけてくる。
「また明日ね、秋元さん」。
塩野が俺の名前を呼んだ。
「えっ、なんで? 俺、名乗ってないんだけど」。
「手元の書類、名前見えてるから」。
俺が持っていた紙を指さして、軽く手を振って塩野蓮は駆けて行った。 

その夜、俺は俺の家族らしき人たちと晩ごはんを食べた。
飢えることなく、たくさん食べたい、その願いが今、叶えられた。
父親がいて、おまけに兄までいた。
「で、はるかちゃんを助けて学校に連れてきてくれたのが、その祝辞を読んだ子なのよ。すっごい爽やかでかっこいい子だったのよ」。
ママは俺が学校に行くまでのいきさつを浮かれてしゃべっている。有原大樹のことを言う。この世界でもやつは見た目がいいらしい。
「はるかが、啓明みたいなエリート校に受かると思ってなかったわ」。
にやにや笑いながら、からかうように兄が言う。何と返事していいかわからないで、ただ目の前の料理を夢中で食べていると、
「なんだよ、はる。まじで珍しいな、お前がそんなおとなしいの」
ちょっとつまらなさそうだ。
「まぁ、はるかも疲れたんだろう。おい、はるちゃん、サプライズ! このケーキ正志が買ってきたんだぞ」。
目の前に丸い物体が出される。「入学おめでとう」とそこには書いてあった。慌てて兄の顔を見ると、ちょっと照れたように目を逸らしながら「まぁ、そのうちに倍返しで。がんばれよ」とボソッと言う。
胸の中にあたたかな感情が広がる。なんだよ、これ。こんなことがあるのかよ。腹いっぱいで、メシを食うのにも苦労しなくて、狭いけれどシェルターがちゃんとあって、家族がいて、しかもその家族が俺のことを大事に思っているなんて。そんなことあるのかよ、あっていいのかよ。
血だまりで死んでいった父と、やせ細って泣いてばかりいた母を思い出す。
飢えて体を起こせなくなった自分の姿も。
涙がぽろり、と目からこぼれる。
「はるちゃん、今日はいろいろがんばったもんね」。
ママの言葉に、パパも兄の正志も泣いている姿に大笑いをして、そして、俺はたくさん抱きしめられた。

ベッドなるものに横たわって、今日の出来事を思い出す。
一気に色々なことが起こりすぎた。不意にあの占い師の言葉を思い出す。小さな銀板に刻まれ、首元に長くペンダントとして下げていた、俺の運勢。
「美しい虹を、この世界にかける」。
世の中は憎むべきものだったし、虹なんてものは見たことはなくはるか昔になくなったもので、大気はいつも緑に濁り、少し先の景色すら見えない。
俺が生まれたときのお告げ。母はこうも言われたという。「途中で大きな変化があり、この子はこの子自身を手放す。そこからすべてが始まる」と。
自分自身を手放す。
ってことは、今のこの秋元はるかとして生きていく道しかないのか? そのうえで、俺はするべき役割があるのか?
もともとの俺の人生を思う。父親が生きていたときに俺も支配ドームの中で暮らしていたこと。なんだったら、アリハーラ家ともかなり近い関係で、同じ年のルカ王子とは一緒に遊んでいたということも覚えている。
ルカはわがままな子で、でも、どこか憎めない。その顔立ちは美しく、目がぱっちりとしていた。エレナの面影はちょっとある。
宮殿に並んだ肖像画の列の前で、ルカが誇らしげに俺に言ったことを思い出した。
「僕、この人に似ているって言われるんだ。この国を作ったとっても偉い女のひとなんだって」。
誇らしげなその言葉。
「だから僕も、いつかすばらしい支配者になれるってみんなが言うの」。
何度も怒りとともに思い出した、あのルカの言葉。大地にはいつくばりながら、飢えた目で空を見上げながら、繰り返し憎んだ幼なじみのルカ。
そいつが誇っていた、あの女が今、ここにいる。
確かに、まだ有原もエレナも何者でもない。ただの子供だ。
あの恐怖の世界を作り上げる前だ。
単純に考えたら、有原とエレナ、二人が結婚しなければいい。
そう気づいた。
そうでなければ二代目の帝王は生まれてこなかった。
そもそもエレナもその地位にまで上り詰めることもなく、二人の邪悪な思いが結びつくことはなかったのだ。そもそも、二人の接触を防いでおけばいい。
エレナがかつて婚約していた塩野蓮と結婚すれば、まったく違う人生だっただろうし……。歴史で聞くところによれば、塩野が開発した社会秩序保持システムをきちんと良識のある形で運用できていれば、平和を保たれた、と言われる。
ってことは、単純に、塩野蓮とエレナの二人が大人になってもずーっと別れなければいいんじゃないか。
思わず俺はベッドから身を起こす。
そうだ、もしそうであれば、本当の俺の人生だって違っていたはずだ。もっと違う幸せな世界に生きることができたんじゃないか。
不思議な力が体の奥底から湧いてくる。
いいじゃないか、俺、やってやるよ。二人の恋をずっと守ってやる。
そのために、きっとここに生まれてきたんだ。そう確信した。

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