誰かをおくるということ

身内である最後のおばあちゃんが亡くなった。
90歳も越えていて、最期は自宅で家族が変わりばんこに見守り、消えていった。
私の従兄弟は、ものすごいおばあちゃん子で、この数年間、本当に看病に捧げていてその辛抱強さとやり遂げた感は、すごくってきちんと執念もあり、これが本来の、人生を生ききるってことなのかな、と思わされた。
でも、それは幼いときにおばあちゃんが私たちに注いでくれた、ものすごい量の優しさが生んだものなのだ。
いつも着物をすっきり着て、美しい白髪のまとめ髪をしていたおばあちゃん。
おだんごパンという絵本を読んでくれた。
家族の入院でまだまだ子どもだった私がしょんぼりしていると、駆けつけてポテトサラダの入ったお弁当を作り、ケーキを買ってきてくれた。そのポテトサラダは母親が作ったものと、同じ味で、一口食べるとほっとした。
色とりどりのケーキの中には私の大好きな栗のクレープがちゃんとあった。
終わりのない、尽きない優しさ。
その積み重ねの日々が、家族がおばあちゃんの最期のじかん、あの苦しさ、出口のなさを救ってきたのだと思う。
生きている中での小さな出来事が、人生の終わりに大きな波になって還ってくるんだ。
おばあちゃんに注がれた、ただただ天国で幸せに暮らして欲しい、最期に願っていたことは何だって叶えたい、という家族たちの思いの強さに打ちのめされながら、私はおばあちゃんの安らかな眠りを願い、その人生の清らかさを思った。

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